名無し委員会

われ/われ、”名無し”の群れは、ここにこうして政治的意見を発表する。その物質的成果は、『別冊情況』「思想理論編」に掲載されるだろう。

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅱ

(承前)

 

 第六の蜂起 あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)

 

 

 

「つながり」という言葉が大流行している。ネット上で作られる人間関係のネットワークは「ソーシャル」と呼ばれ、従来あった「社会」とは別種のものと考えられている。身体を伴った共同体が希薄化してきているのを補うかのように、ネット上に現れたソーシャルが、オフ会などを通じて身体を伴う共同体を再形成したりしている。

 液体化した人々は、表面張力を通じて「つながり」に対し、相反する二つの力を受ける。つながろうとして接近すると斥力が働いてつながれず、「炎上」のような暴力を生む。過激なセクトやカルトに見られるように、離れようとすると引力が働いて、異分子を許さない暴力を生む。つながることにもつながらないことにも暴力があり、その中間で流動している最適な線の上でいつも揺れながら綱渡りの緊張感を強いられている。

昨年の衆院選で、議員によるツイッターでの「つぶやき」が公職選挙法に抵触する恐れが出た。それも今夏の参院選からは解禁される。サイトやブログに加え、急速に普及しているツイッターやフェイスブックといったソーシャル・ネットワーキング・サービス、さらには電子メールによる投票の呼びかけも全面的に認められるだろう。

他方で、インターネットと、日々飛び交うコミュニケーションは、時に蜂起や革命をも用意しうることを数年前の中東革命は証明した。今やわれ/われはネットという新たな「現実」を獲得し、そこでわれ/われが培い育んだ「連帯」は、社会を変える力をたしかに持っている。

ところがだ。イラーイ・パリサーが指摘している。ひとびとは、好みの情報だけを取捨選択できるフィルタリング技術と作法を身に付けることによって、急速に「閉じこもり」つつある。さながら、ツイッターの各人のタイムラインが象徴するがごとく、私に見える風景とあなたに見える風景は絶対に共有できない。

 だから、自分自身の見えている風景の中での正義を行使することが、他人にとって、リンチに等しい暴力である「炎上」になってしまうことがある。

 

在特会など、ネットと現実の両方にまたがる新しい社会運動は、蜂起を行おうとする個々人の感情を背景としているかもしれない。それはわれ/われが肯定する蜂起と感情的な質を同じにしているのかもしれない。いや、間違いなく、している。だが、彼らとわれ/われは違う。われ/われは、ある集団の存在を自明視しない。ある共同体の存在すら自明視しない。誰かに勝手に作られた枠に留まることはしない。在日韓国人」などという集団として相手を見ることもしないし、「日本人」という集団として「われわれ意識」をもつこともしないだろう。

既存の集団の「輪郭」を飛び越えたりすり抜けたりする、断片的な集合のあり方をわれ/われは肯定する。現実に、われ/われはもうすでにその中に生きているのだ。その変化への反動として、旧来の「輪郭」を求める気持ちはよく理解できるとしても。

だが、本当は存在しもしない敵を仕立て上げて架空の連帯を作る必要などあるだろうか? われ/われはそれが面白いのを知っている。われ/われは、それをオンラインゲームのなかで行っている。ゲームの中で架空の侵略者たちを何百万人と殺害し、崇高なる連帯感を得るのは、とても楽しい。

だが、われ/われは、「われわれ」にならないまま、「われ/われ」として連帯できることを知っている。中国で大規模な反日デモが吹き荒れ、商店が破壊されている最中に、中国人と韓国人のプレイヤーとオンラインで協力プレイをしながら、ゾンビの群れに火炎瓶を投げ込むこともできる。われ/われはすでに国家の輪郭を超えている。自動翻訳の性能が上がれば、言語の壁ももうすぐ越えるだろう。

 しかし、そのようなソーシャルや記号の連帯の中で、「外部」として錯覚されてしまうものがある。それは、身体と暴力、そして死である。だがそれとて、色濃くコミュニケーションの中にある。

 

 二〇一二年の目立った大規模な反原発の行動として、首都圏反原発連合による金曜官邸前行動がある反原連の行動の指針について考えるにあたっては、リサイクルショップ「素人の乱」が呼びかけてなされた二〇一一年の「原発やめろデモ!!!!!」との連関に注目するのが適切だ。

原発やめろデモ!!!!!」を見舞った一つ目のトラブル、一一年六月一一日の新宿のデモで生じた。「原発やめろデモ!!!!!」は、新宿のデモにて統一戦線義勇軍の議長である針谷大輔を出発前アピールに呼ぼうとしたが、デモ出発前ギリギリになりこれを止める。第二次世界大戦を肯定する針谷の登壇を批判する声がTwitter上に生じたことが事の発端になった。さらに、デモ当日には、針谷の登壇を望んだ青年が日の丸を掲げてゲリラ的に壇上へと登るハプニングがあり、針谷の登壇を批判したものたちとの間での諍いが発生した。日の丸及び脱原発右翼を、反原発運動がどう評価し、向き合うか。

原発やめろデモ!!!!!」における二つ目の躓きは、九月一一日の新宿デモでの、デモ参加者に一二人もの逮捕者を出した逮捕事件があった。「原発やめろデモ!!!!!」はこの第二の深刻なトラブルにより、活動を休止せざるをえなくなった。

これらを乗り越えるべく、野間易通ら反原連は、第一に、脱原発のシングル・イシューということを唱えた。反原連は日の丸を容認している。第二に、逮捕者を出さないよう徹底したデモの警備態勢をとる。一八時に始まり、二〇時には参加者に帰宅を呼びかけ抗議を終了させる

毎週金曜日に開催されていた首相官邸前のデモで、「過剰警備反対!」のコールをあげつつ歩いたとする。参加者のおばさんに「そんなことを言うな!」と怒鳴られるだろう。警察と揉めてはいけない、だが抗議はしたいという市井の人々が数多く集まっているのだ。警察との約束に基づき二〇時には参加者を解散させるパターナリスティックとも言える大衆管理の手法は功を奏し、前年の素人の乱のデモを超える大衆動員を現した。毎週同じ場所に同じ時間に集まり続けるというスタイルも、人と人を結びつけ、同種の思想を抱いた市民たちのコミュニティを作り出していくのに一役買った。

だが、このままでいいのか。多数の人々が野田首相原発再稼働阻止を訴えるべく官邸前に集まった日本の社会にとって反原発の行動は、集団で散歩している不審者に過ぎないのか。首相官邸前での、とある反原発直接行動では、ナイフを鞄から取り出した青年が逮捕されるという事件があった。血と暴力、死の匂いと身体性に溢れた出来事であり、ソーシャルにおいて疎外された欲望を見事に体現していた。

だが、これとてデモンストレーションの最中に行われたパフォーマンスなのであり、メッセージであり、コミュニケーションに過ぎないのだ。

 秋葉原での衆議院総選挙の自民党街頭演説では、多数のネットウヨクの若者たちが集まり、無数の日の丸の旗をそよめかせた。そして、朝鮮人は出て行けという排外主義の主張もまた叫ばれた。われ/われは、日の丸の旗を久方ぶりにここに多数見出した。

 二〇一三年三月一七日に、在特会が新大久保で排外主義を謳うデモを行った際、野間易通の呼びかけによって結成されたレイシストをしばき隊」が活動を行い、小競り合いが生じた。

この両者の衝突は単なる暴力や身体の問題ではない。彼らを取り巻く人々の関係性やコミュニケーションや空気の圧力の結果として、行動が起きている。身体的な暴力すら、人々を最も魅了し、メディアに取り上げられ、話題になり、議論の「ネタ」になるための材料になってしまう状況の中では、擬似的な外部でしかない。

外部が消失してしまうかのように思い込ませ、外部に出たと思えばそこもまた内部に反転させ続け、外部への到達を不可能だと思わせ続けるような装置。そのような暴力装置の中で窒息するがゆえに、われ/われは擬似的な外部へと誘導されやすくなる。

 

 われ/われは、時々ある誘いを受けることがある。活動をしてみないか、組織してみないか、その代わりに書かせてあげるよ、本を出させてあげるよ、と。無名で、何の価値もない虫けらのようなわれ/われは、容易くその誘惑に屈してしまう。それは、グローバル資本主義と格差を利用している。

 われ/われは、自分が正しいと思い込み、その手段を正当化するような既存の活動家たちにも蜂起を宣言する。彼らに権威や社会的地位や利権があるがゆえに、そのような蜂起が、自身の首を絞め、生活を脅かすことになろうとも。われ/われはその矛盾に耐え続けることもできないし、黙り続けることもできない。沈黙を強いてくるものが「声なき者」や「弱者」の代弁をしながら利権と資本を行使し続けている矛盾に耐えることはできない。

だから、われ/われは蜂起する。その点では、既存の左翼が権威と化して既得権益をもち、メディアを支配し、様々な真の問題や声を押し殺してきたとする在特会の主張にも、一定の共感と理解はせざるをえないのだ。われ/われは、在日と呼ばれる人に特権があるとは思わないが、彼らの主張の断片には連帯する。ある部分では、それを拒絶する。われ/われは、「われわれ」ではないのだから、そのように連帯する、いや、つながることができる。

 

首相官邸前デモや、フジテレビデモには、身体的な暴力を振るうことを好まない傾向があった。乳母車を押し、子供連れであることに象徴される両者の共通性――それは時に父権主義と訳される「パターナリズム」ではなく、むしろ母権主義的な運動である

とはいえ、身体的ではない暴力もまた暴力であるというふうに、われ/われの社会は感受性を変えてきた。それは産業として感情や人格、コミュニケーションが前景化してきた傾向と即応している。

紫陽花革命やフジテレビデモのような「母性的なデモ」。さらにはソーシャルやネットの次元での蜂起。それらが疎外したがゆえに苛烈化していく、身体的な暴力を志向するデモ。この三つを便宜的に切り分けてみよう。

ここで重視しておきたいのは、「身体的な暴力」を忌避しようとすることもまた暴力を呼び起こしてしまうという点である。

花王不買運動やフジテレビデモなどは、お茶の間で見るテレビに韓流が多いことなどを批判の根拠にしており、母性的なデモであった。一方で「紫陽花革命」もまた、放射線による生活不安や子供の未来を問題にし、子供連れの主婦の多い運動であった。

そこで「暴力」を悪魔祓いすることが困難なのは、「一部の暴走」のせいだけではない。なぜなら、もうわれ/われは、言葉や情報の中にすら「暴力」が存在すること、暴力の定義の無限拡大の可能性に手を染めてしまっているからである。そうなってしまった以上、コミュニケーションにもソーシャルにも、熟議にもカフェにもサロンにも暴力が満ちていることになる。窒息したくないがゆえに、暴力や身体という、コミュニケーションの外部を求めてしまう。

言葉、仕草、ときには存在すら暴力であるという濫喩の世界の中で、暴力を行使する側でありながら暴力を振るわれ、罪責感を促進させ、それを他者に向けてしまうようなスパイラルにわれ/われは追い込まれている。

暴力の位相が変化してしまった以上、われ/われはコミュニケーションに潜む暴力に直面しなければならない。身体的暴力よりも、より容易に加害者にも被害者にもなりうる。そういう世界を、自ら作り上げてしまった。

 この社会は、こうわれ/われにこう命令している。あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)。

 では、「正しい暴力」と「間違った暴力」があるのだろうか。その正当性の根拠は何で、誰がどう判断するのか? つながりの引力と斥力の綱渡りを強いられるように、われ/われはいつも、加害者と被害者の両者を相互転換させられ、どちらにもならないように緊張を強いられている。

 だが、われ/われは告発する。このような生を強いられることこそが、重大な暴力である。こんな緊張度の高い状態で自身を維持するように強いる圧力こそが、われ/われの敵である。

言葉と認識を武器に、精緻な読解によって、この蜂起は、いや記号の内戦状態は、戦うことができる。あなたの打つキーボードの一タッチさえ、ひとつの銃弾なのだ。戦え!

 

 

 

第七の蜂起  昆虫化するポストモダン

 

コミュニケーションやゲームは、現在、脳内報酬系を刺激するようにデザインされている。人間のネット上での行動や、生活の感覚もまたその影響を強く受けている。

 ヤフー・リサーチの主任研究員、ダンカン・ワッツは、コオロギの研究者であった。ある虫が鳴けば、他の虫も連鎖して鳴く。そのような虫のコミュニケーションを研究していた人間が、現在、インターネット上の人びとの振る舞いを観察・研究し、行動を設計している。それは、人間性に対する侮辱に思えるかもしれない。しかし、統計的データを見ると、人間は、自由で責任を持ち行動を自己決定している〈主体〉であるというロマンチックな思い込みは捨てざるをえない。群れとしての人間は、動物でも家畜でもなく、虫に近い集合的行動をしているように見えるのである。人間行動が昆虫のように、現に扱われていることを示す“科学的”データが大量に集まってきている。ある学者はいう。内省的な自意識をもつのは人間のうち三割、その他の七割はそのような自意識を持っていない。様々な覚醒レベルのグラデーションの中で人びとは生きている。ほとんど無意識に近い状態で社会関係をこなし、この世界で生きて動いているときもある。われ/われもまた、時にはそのようなゾンビ状態で生きている。

 現在、かようなまでに脳科学的に人間に働きかけ、人間をコントロールする技術が発展している。Microsoftはその社内に脳・心理学の研究ラボを持ち、その成果をゲーム開発やソフトウェア開発に応用している。パチンコやソーシャルゲームにおける、脳内報酬系への刺激のデザインだけではない。映画も、ゲームも、それから小説さえも、ある特定の脳内報酬系を刺激するだけの装置と化している。脳の一部に、崇高な音楽が鳴れば崇高な感情を抱いてしまったり、特定の視覚的刺激には高揚感や宗教的感情を抱いてしまうようなだらしない部分があることを、われ/われは実感として否定できない。われ/われの脳はそのような単純なシステムであり、そのような単純なシステムを刺激されることは途方もない快楽であると仮定された上で、文化が作られている。

 文化で起こっていることは、政治と無関係であるはずがない。「政治とサブカルチャー」が混在している現在を、われ/われは直視しなければならない。なぜなら、今や政治の現場はネットにも移っているからだ。ネット流行語大賞にもなった「ステマ」(ステルスマーケティング)に象徴されるように、ネット上である商品の評判をコントロールして消費者を誘導する技術は現に存在する。そしてそれは、広告産業が「政治」と大きく結びついてきた歴史を鑑みると、当然政治にも応用されるもの、現に応用されているものと考えなくてはならない。

 

われ/われはすでに経験している。Twitterを通じてある候補に対する否定的な意見を言うとする。するとそれに反論をしてくるアカウントが複数立ち上がる。まったくの別のアカウントながら、なんと反論のメッセージはまったく同一なのである。詳細は不明だ。ある単語を抽出し、それに対する反応を自動化させるbotが使われていたか、あるいはそれに類似する行為を手動で行っていたのではないかと思われる。ことほど左様に、ネット上においてあなたが接する他者が人間なのかどうかすら、ほとんど判別できなくなっている。

だから、われ/われは警告する。“科学”や“データ”を疑う必要がある。それは、広告代理店や、本質は広告会社であるgooglefacebookyahooが自身の価値を誇大に広告しようとしている戦略の一部である。科学とデータの権威を魔法のように使い、「広告」や「マーケティング」のシステム自体を広告する戦略である。マーケティング、リサーチ、マスメディアの利用などにより、昆虫に相互作用を起こさせるようにして「関係性」を操作し、「流れ」を作り出すこのやり方こそが、現在の資本や国家が用いている戦略である。

われ/われは、われ/われを昆虫とみなすその視線を、受け入れよう。だが、巣箱を叩かれたミツバチが人を襲うように、ハチは怒ることができるわれ/われはもはや「動物」ですらない、虫なのかもしれない。だが、われ/われはコオロギでもアリでもない。少なくとも、ハチだ! 昆虫的に自動反応するモジュールの集合であったとしても、そこに蜂起の可能性を秘めた集合だ。脳科学的な脳内報酬に依存する文化が全面化し、その感性により飼い慣らされる人びとがいくら増えたとしても、われ/われのうちのどこかはそれに反発する。「われ」の一部は、コントロールされていることに対して自動的に反発を抱くようにできているのだ。もちろん管理に対する反抗心もまた管理できる。われ/われが対抗しなければならないのは、そのような高度化し、多重化した管理である。

 

虫扱いし、コントロールし、操作しようとする連中に、諸君は腹が立たないか。虫群扱いされてムカつかないのか。単純な快楽の刺激の組み合わせで満足するチョロい連中と思われて不快ではないのか。その後ろで冷めた心で笑っている連中の顔が思い浮かばないのか。

リサーチし、データで人間をコントロールし、マーケティングしている側の諸君も、そのようにコントロールできてしまう人間に、絶望を覚えることはないのだろうか? 人間とは所詮昆虫のように操作できてしまうという現実に――あるいはそのような虚偽を広告することに――虚しさを感じないのか? 虫ならぬ「生きた人間」は世界に自分しかいないのではないか、と孤独感と虚無感に囚われることはないのか? それとも世界を動かし、操る全能感と権力意識に酔いしれているのか? 大衆は非合理な選択をするから適切に導いていかなければいけない、と使命感を感じているのか?

多分、あなたは正しい。であるがゆえに、われ/われはあなたにもまた、蜂起の当事者として呼びかけたい。あなたの抱く、不満、虚しさ、絶望感、怒り、それらの感情を、われ/われの蜂起として発して欲しい。さもなくば、あなたの魂はおのずと侵食されていくはずだ。人間を人間たらしめているあなたの“魂”まで侵食され、そこもやがて昆虫たちのように管理されていくようになるだろう。それが嫌なのであれば――あなたに人間らしい魂があるのだとすれば――叫ばなければ、必ず侵食される。

 だが、もはや人間である必要もないのかもしれない。昆虫のように、botのように、人間もまた断片のネットワークと化してしまって、何が悪いのか? そう、それが幸福であり、不満でなければ、それでよいのだ。不満さえなければ。ほんとうに、不満さえなければ。だが、われ/われにはそれがないとは信じられない。現に、われ/われは不満だ!

 

〈神〉は断片化し、ネ申や「天使」である初音ミクとしてネットワーク環境の中に遍在している。告白などの制度による〈神〉との一対一関係や、書物を沈思黙考することによって養われてきた近代的〈主体〉もまた断片化し、われ/われとなった。

〈革命〉もまた断片化し、遍在している。ネットワーク革命、ベンチャー革命、脳内革命、価格革命、カップラーメン革命……。このように、日常化し、大衆化し、商品化された〈革命〉の断片たちにわれ/われは包囲されている。世界が一挙に終焉し、新しい世界が全的に開かれる〈革命〉は訪れない。存在するのは、車輪の再発明であったり、商品化された革命である。だが、われ/われはその〈革命〉の断片化をさらに推し進める。個人ではなく、モジュール単位で断片化した蜂起や革命がありうるはずであると信じる。神経伝達物質とシナプスの間にも蜂起や革命はありうるはずだと。量子論的な波動の中にも革命はありうると。歯磨きしているときに水を流しっぱなしにしないだけで月々三五円の節約になる、と発見することもまた革命であるには違いないのだ。

 われ/われは誰でもない。だから、どこでもない場所、ユートピアに最も近いところにいる。いまここにある蜂起のなかに、たしかにユートピアが見える。ユートピア的衝動が横溢する、矛盾のただなかに。ユートピアの不可能性のなか、不可能でもユートピアを望んでしまう衝動のなかに。

 そこにある蜂起のなかに、われ/われはいる。この蜂起は孤独な蜂起ではない。われ/われの断片化した一部はつねに互いにつながっている。決して孤独な蜂起ではない。見えないところで起こっている、蜂起とは見えない蜂起の連鎖が、やがて社会を知らず知らずのうちに更新するだろう。

われ/われは何度も失敗し、何度も絶望し、それでも何度も夢を見るだろう。繰り返し繰り返し蜂起が失敗しても、蜂起の失敗に対してさえ蜂起を起こすだろう。希望が失望に反転する悪夢的な歴史に由来するシニシズムに対しても、悲惨に帰結するであろう安易な楽観主義に対しても蜂起を起こすだろう。繰り返し生起する乱反射的な蜂起のなかで、乱反射的で分裂的なわれ/われの〈革命〉は少しずつ進行していくだろう。かくして、新しいわれ/われの〈新しい生〉の領域は確実に広がっていくだろう。臆することはない、現実の土地や政府の領域を超えて、別種の生が、別種の王国が、着実に、見えないところで育っている。

 われ/われは誰でもない、だから、誰でもありうる。われ/われはどこにもいない、だから、どこにでもいる。

 われ/われはそこにいる。あなたがたも、また、すでに。

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅰ

(承前、本稿は『別冊情況』思想理論編第二号に掲載される)

 

 第四の蜂起 Enjoy!Enjoy!Enjoy!!!

 

 今朝マクドナルドで朝食を食べた。レジで母親と同じ年齢ぐらいの優しそうな店員が「朝マックのソーセージマフィンを無料でお試しいただくキャンペーンをやっています!」と大きな声で呼びかけている。

 以前からマクドナルドは、無料クーポン配布のキャンペーンを行っていたが、現物を無料でその場でくれるなんて! ここまで来たか、マックキャンペーン……刺激をどんどん増幅させてゆく無料キャンペーンに胸が高鳴り、思わず「お願いします!」と申し出を受け、ソーセージエッグマフィンを食べた。子供の頃から馴染んだ、かりっと焼けたバーガーとマフィンとジューシーなチーズ、その味は、企業努力の成果であり、自分で作る朝食などよりもよほど美味しい。しかも今日はまさかの無料! 

 マクドナルドは、二〇一三年の一月に約一ヵ月間「Enjoy! 60秒キャンペーン」と呼ばれるキャンペーンを行った。客が商品を注文してから六〇秒以内に店員が商品を提供できなければ、無料バーガー券を発行する。基本的にハンバーガーの作り置きはせず、その場で作って袋に包みドリンクも入れ、サイドメニューなども確実に提供しなければならない。カウンターには六〇秒を測るマクドナルドカラーの赤と黄色の砂時計が置かれる。イエローの砂はアッという間にさらさらと落ちて行く。無料券はたくさん支給された。

例えば、手の込んだメニューを一〇個頼んだとしよう。昼時の混雑時に勤務シフトを入れている店員が、このキャンペーンで砂時計の黄色い砂の落ちる音と共に、形容し難い悲鳴を上げ、テンパる。そして「テンパった状態」が常態化される。なにがEnjoy!だクソ野郎、と思う暇すらない。

しかしそこは世界のマクドナルド、ネガティブな反応を見越していないはずはない。このキャンペーンは、ネットですぐに大きな話題となった。「60秒キャンペーン」と検索すると実際に「(バイトを)やめたい」という書き込みがすぐにヒットする。他方で、「60秒キャンペーン攻略法」などと題し、「揚げたてポテトの塩抜き」などという時間のかかるメニューを頼み、無限に無料券で食事をしようとするゲームの攻略方法などがみつかる。

一方、多くのネットユーザーは店員に同情する。「そこまで急いでいない」、「誰得(誰が得するんだ)キャンペーン」などと、マクドナルドに対する批判の声が多く書き込まれた。不必要であまりに酷いキャンペーンとして、話題をさらった。ネットでは雇用者側が現場の働き手をいかに物扱いしているか、という論調が多かった。しかし、多くのテレビや新聞でこのキャンペーンはニュースとなり、ネットで話題をさらったわけで、企業=日本マクドナルドとしてはゲームの第一章を簡単にwinした。店員の悲鳴や批判的な世論などは関係ない。それも織り込み済みのゲーム設計だからだ。

日本マクドナルドホールディングの広報は、この六〇秒キャンペーンを行う理由の一つにマクドナルドのスピーディーさをゲーム感覚で楽しんでもらおうという意図から開始した」としている。混雑時のイライラを、六〇秒で商品が来るかなというドキドキに変え、店員の仕事の効率も上げ、待ち時間を短縮しゲームにする。知らない合間に脳内報酬系が作用し、Enjoy!と客に提供される。

ゲームをプレイした者は、結果や思想がどうであれ、体験をSNSなどに書き込んでしまう。ゲームに参加した者は、文句を書いたとしても、そのゲーム体験は脳に残る。そして快楽と化し、またマクドナルドに反応してしまうのだ。マクドナルドの仕掛けたゲームの落とし穴に多くの人間がはまり、twitterfacebookなどのSNSやブログや匿名掲示板には、おびただしいマック商品の画像があがった。時に店員が急ぎすぎてダブルバーガーが崩れたり、包装がチグハグだったとしても、その画像は笑いやマクドナルド経営者への批判として、崩れたハンバーガーたちはネタとして、コミュニケーションの安い材料として見事に消費された。マクドナルド・ブラックの企業ネタは現実に賃金闘争や労働改善の風をおこすことなく、ネタとしてネットを泳ぎ続けている。このゲームを真に操作し楽しんだのは客でも店員でもなく、実はマクドナルドの経営者たちなのだ。

 われ/われは、安いもの、馴染んだもの、ゲーム性の快楽をそう簡単に捨て去ることはできない。それは当然だ。だが、叩き台のネタとしてしばしば叩かれるマクドナルドが恰好のネタを提供してきたとしても、それに安易に乗って叩くだけで終わっていいのか。ネットで内輪揉めをして充足するだけでは、自分の身を安い材料としてマックのゲーム設計に捧げているだけなのだ。

 経営者-サービス労働者-消費者-SNSと巡る蟻地獄のような循環と逆循環。だが諸君、真に面白いゲームとは、「ゲームのゲーム」すなわち、そのゲームのルール自体を作っていく/変えていくゲームではないだろうか! だとするなら、このようなゲームのコマにされ続けている労働者、消費者が、一転して戦うプレイヤーになれば、ゲームそのものに新しい展開が生まれるだろう。 

マクドナルドの店員がキャンペーン当日、満員の客を前にして一斉にストライキを行うというゲームを始めるとしよう。次の一手が繰り出されるだろう。それは雇用者側からの仕掛けかもしれないし、キャンペーンを望む客からのアクションかもしれないし、SNSユーザー・ネットからの後方支援かもしれない。マスコミも参加するかもしれない。そのゲームが一通り成功しても、安売りが終わって商品の値段があがり、次は業績不振を理由に店員の雇用が切られるかもしれない。そうしたら、また、次のゲームを始めればよい。

既存の労働組合も、生活協同組合も、真に必要な非正規雇用者の救済に動かないのであれば、われ/われがゲームを自らの手で行うしかない。たった六人の非正規雇用者でストを行った東京メトロの勇敢な売り子たちに続くのだ。

そう、マックが用意した合言葉、Enjoy!と叫びながら。EnjoyEnjoyEnjoy!!!

 

 ゲーム化が行われているのは消費の場面だけではない。自らの身体・人格・知性を労働市場の商品として売りに出す就職活動にも、ゲーム化は起きている。

 リクナビ、マイナビに代表される就活サイトがスタンダード化したことにより、学生は企業の情報を簡単に手に入れられる時代となった。ネットで誰もが簡単に応募できるようになったお陰で、勝率の低い賭けを下手な鉄砲のごとく数多く撃たされる羽目になった。そして、「就活」と呼ばれる活動の攻略法が作られた。

他のライバルに遅れを取らず、自分をより良く見せる方法が無難な「お手本」として確立される。負けたくない学生たちはそのお手本を模倣し、それが自分の形に当てはまるように心身を矯正することによって、苦難のゲームに挑むことになる。その結果、就活の場面では、「お手本」になりきる力と、相手の質問に相手が喜ぶ答えを返す能力が試されることになる。その質疑応答すら、パターン化される。それを逆手にとって、「ここが個性の発揮される場所なのだ」という話になりそうだが、これこそ罠である。一旦、「お手本」によってフラットにされてしまったハードの上に乗せられる個性など、個を司る芯には成り得ない。

 企業は、個性を殺してお手本に忠実になった学生に魅力を感じるようになる。もちろん、大企業では「個性的学生」の採用も行なっているはずだ。しかし、倍率が百倍を軽く超すようなシチュエーションでは、余程の魅力をもった個性でなければ埋もれてしまうだろう。また、中小企業は採用人数が少ないため、人とは異なる異質な人材を入れるリスクに躊躇してしまう。こうして、無難であることが唯一の道になってしまうのだ。

 ゲームと割り切って「お手本」通りに生きれば話は早い。だが、世の中にはそのような社会に適応することに疑問を持つ、あるいはできない人々もいる。その場合、社会と真っ向から向き合うことになる。

簡単なことではない。コミュニケーションスキルに難があり、上手く面接ができない人間が社会と向き合って生きていくには「他者より遥かに秀でた才能」が必要となる。作家でも、画家でも、音楽家でも、何らかの分野において飛び抜けた人間が到達できるラインに、諸君は登らねばならないからだ。それはやはり、難しい。

ネットで誰でも表現ができるということは、同時に、誰もがトップの表現者と常に同じラインで評価されるということを意味する。そのシビアさは心理的にあまりに苛酷である。

社畜になるか、バイトをしながら「才能」の夢を見続けるか。その二択しかないかのように見せかける社会などというものに、われ/われは疲れ果てている。「才能」などあるかどうか分かりもしない。成功者に後付で「才能」というラベルが貼られるだけだ。われ/われなどは、連射される機関銃の一発でしかない。何万発に一発が的に当たれば、それでよい。

叶う確率が現実的に考えればほとんどないに等しい夢を追い、自己正当化のために現実を見られなくなり、「表現者ビジネス」に金を搾り取られ、精神を破壊され、打ち捨てられる。そんな悲惨な未来をわれ/われは受け入れない。われ/われはビルから飛び降りたくはない。そのような産業要請がこしらえた「才能」の自己分析の無限迷宮の中に閉じこもる気はない。

対峙し、ゲームのように、楽しみながら戦うしかない。それしかない。

 

 

 

 

第五の蜂起 コミュニケーション=空気の監獄

 

 大阪のスポーツ名門高校で、部活の顧問が生徒に体罰をあたえ、生徒が自殺するという事件が起こった。体罰による死は、初めてのことではない。その度ごとに体罰をめぐる議論が起こり、再発防止が声高に訴えられる。にもかかわらず、これからも「指導死」は起こるだろう。これは体育会系に今も残る日本特有の封建制の残滓だと識者たちは言うが、それは違う。

 今回の体罰死をうけメディアで意見は割れているが、識者たちはその暴力の現代的な質を決定的に見逃している。「体罰絶対反対」から「暴力は駄目だが、体罰は認めるべき」、極論として「生徒には体罰を受ける権利がある」まで、議論の幅がある。

現場では、指導と暴力のあいだのグレーゾーンが、巧みに利用され、教師による生徒へのむき出しの暴力は、教育的指導という言葉と両者の人間関係により隠蔽されてきた。なぜこのようなグレーゾーンが生じるのか。学校という制度そのものに欠陥があるからだ。

 学校は権力である。幼き身体を、国民=労働者/兵士へと鍛え上げる。「労働者にあらず」という〈非‐労働者〉を学生にわりあてるのではなく、「まだ労働者ではないが、労働者化の過程にある」という〈前‐労働者〉を学生の社会的身分としてわれ/われは提示する。

〈前‐労働者〉として学校で受ける暴力は、社会の暴力であるだけではない。学校こそが、社会を生み出している。たとえば、「学校」を舞台にしたエンターテインメント小説の大流行を見れば、それは明らかであるだろう。学校/社会という境界は崩れ、社会こそが学校化したのだ。

学校倫理をあまりにも内面化している学生生徒は、学校による身体の管理に、時に自ら喜んで身体を差し出す。一昔前の流行歌のように、「行儀よく、真面目なんてできやしなかった」と叫ぶ意志が、分かりやすい反抗が、既に消されている。「ディシプリンからコントロールへ」とドゥルーズが看破したように、これは権力の統治形態の変化と連動している。

権力としての学校が生徒を管理するやり方が変化している。学校が体罰を温存する環境であることは否定できない。だが、その一方でかつてよりも体罰が減ってきているのはたしかだ。より「人道的」な指導方法が提唱され、実践されてきた。少子化もその背景にある。暴力的な管理の必然性が薄れてきている。

その結果、身体管理の方法が、身体に直接的に影響をあたえようとするところから、コミュニケーションをめぐるものへとずれている。暴力(体罰)は、固体としての身体へ加えられる物理的な力だ。「矯正」である。ところが、コミュニケーションは、身体を液体のようにあつかう。液体化した身体は、自らの外縁をうしない、どろどろと不定形のまま、その場の空気によって流れが支配される。「伝えるべきメッセージ」からはいつの間にかメッセージが脱落し、「伝えるべき」という事実性のみが残る。

 かくして幼少期から訓練する身体の技術は、コミュニケーションとして結晶化する。固体であれば矯正に抗うことが反抗となったが、液体にはそもそも矯正が機能しない。液体化した身体の関心は、いかに表面張力を駆使し水滴どうしで結合しあうか、ただそのことのみにある。学校の教室では目的としてのコミュニケーションが前景化し、各人のコミュニケーションが複雑に重なり合って、その場の空気を作り出す。

 われ/われはその中で窒息している。だが、同時に、その空気を作り出していることもまた深く自覚している。窒息させられながらも窒息させる環境を相互に作りあう被害=加害的な世界の中で怯えている。このような相互に織り成す不信のネットワークの監獄から飛び出し、外の空気が吸いたくなる。コミュニケーションは必要なことなのか! 良いことなのか! 少なくとも、それは絶対的なものではない。

 

コミュニケーションが重要なものとみなされるのは、社会が労働者に対して「コミュニケーション能力」を要求しているからだ。第三次産業が主要な産業と化した現在では、サービス業、アナリスト、アーティスト、作家、管理職、ケアマネージャーなど、人と人の繋がりや情報を商品にする産業が繁茂している

しかし、ブラック企業の店長候補も、ひたすら機械的に打ち込みの作業をするのも「第三次産業」である。広告産業やマスメディアや世界的な芸術家も「第三次産業」である。これらは、実際にその待遇も仕事内容も異なっている。実質上奴隷労働に近いような第三次産業も存在する。同じような「流動性」に直面していることは事実でも、創造性とそれに付随する「開かれ」に期待できるかどうかという差異は確実に存在する。

 このことが、プレカリアートたち、非正規雇用者たちの連帯を分断する亀裂となっている。クリエイティヴィティが正のフィードバックにつながる人々と、単調な労働の中でバーンアウトになるという現実。この二つは、未来の展望が、希望の持ち方が、開かれ方が、根本的に違う。たとえ前者にあるとされる「希望」が幻想であったとしても、後者から前者への憧れと憎悪は発生する。

 コミュニケーションや記号操作に希望を見出すことができ、イノベーションを起こし、新たな地平の輝きにいるように見える人々と、ただひたすらコンビニで接客し、クレーマーに対処し続け……という人生。両方とも、コミュニケーションを実体とする仕事をしている。だが、後者の方がより窒息感が高い。であるがゆえに、「希望」を求めてしまう。前者との分断はそこで生じる。

 その分裂を生み出しているのは産業構造の変化と、必要とされる労働の変化である。それらが、われ/われの内面を作り変えようとしているのだ。そしていま起こっている蜂起は、空気の窒息感により外に出たいと思う人々の蜂起である。希望を求めての蜂起である。

 

子供たちは、自己目的化したコミュニケーションを繰り返し、どこまでもその環境の内圧を高める。空気の読み方は、意図して身につけられるものではない。自然な身のこなしとして表出し、空気の存在は読み違えたときに初めて意識される。言語ゲームのルールのように、その場に居合わせた者たちの手によってその都度作り上げられていく。

 そしてこの空気は、空気として存続するのに必要なテンションを保つために必然的にいじめを生み出す。子供たちは、コミュニケーション力を軸に序列化され、スクール・カーストを形成し、下層の子供たちは上層の子供たちによっていじめの対象とされるリスクが発生する。

一部の論者は、体罰やいじめを減らすために、外部の目を導入すべきだとする。だが、学校の外の社会に出たあとも、陰湿ないじめ/パワハラ/セクハラ/退職強要といったブラック企業的暴力は横行している。学校でのいじめを通じて、被害者も加害者もそんな社会で「働く」ための予行演習を、まさに〈前‐労働者〉として行っているのだ。

 学生としてのあなたは〈前‐労働者〉として、同調圧力とコミュニケーション至上主義を体感する。卒業後、コミュニケーション至上主義によって馴致されたあなたの身体は、グローバル化の波にさらされた崩壊寸前の日本企業によって、最後のエネルギーをかすめとられる。日本型経営の悪しき側面だけが何十倍にも濃縮されたブラック企業は、解雇にともなう訴訟リスクをヘッジするために、ソフトな退職勧告を職場の空気によって行い、若年労働者を次々と廃人へと追い込んできた。ブラック・グローバル企業は、日本の労働者と社会資本をむさぼりつくし、海外へと逃亡していく。

 

ノマドという言葉が発明された。「ノマドと社畜」などという言葉もある。

ある外食産業に正社員として務めているわれ/われの一人は、これを経験した。一年間で四回の転勤で、北海道、福島、北関東を転々とさせられた。2週間前に出される辞令によって、人間関係も生活基盤もまっさらになりながら、移住していく。

定住をしないのだから、まさにノマドであり、しかも社畜である。彼女は、この数年に何度も交通事故を起こした。仕事先が一二〇キロ先の距離にあり、睡眠が取れていなかったからである。真冬の高速道路で車がひっくり返り、割れた窓から吹雪が吹き付ける中、家まで帰った。これが、ノマド、かつ、社畜の運命である。

われ/われの忍耐はすでに限度に達している。これでいいのか。あなたがたはこの空気の監獄の中で息苦しくはないのか?

われ/われは権力としてのコミュニケーションに対して蜂起しなければならない。相手が管理者であれば、空間的・物理的に有限であった。しかし、いまや権力はコミュニケーションだ。われ/われには、どのような蜂起の形が可能であるのか。

 われ/われを支配するコミュニケーション。われ/われを取り巻くコミュニケーション環境。それは、使い方によっては抑圧する権力を液状化し、拡散させることができる。話は簡単だ。教師に殴られたとしよう。それをケータイで録音しろ。録画しろ。ウェブにアップしろ。匿名掲示板で告発しろ。ツイートしろ。フェイスブックでシェアしろ。YouTubeニコニコ動画にアップしろ。弾幕をはれ。「いいね!」ボタンを連打しろ。RTしろ。

 そのようなネットワークやソーシャルメディアもまた、暴力と化してしまう逆説を理解しつつもなお、われ/われはその可能性に賭ける。なぜなら、テクノロジーとは、本来、人間に力を与えるものだからである。使えるテクノロジーであるならば、合法的にそれを使わない理由はない。行使し続けよ、そして政治の概念も、われ/われの力のあり方すらも、更新してしまえ。

 

 

 

Ⅱ-Ⅱに続く) 

 

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号