名無し委員会

われ/われ、”名無し”の群れは、ここにこうして政治的意見を発表する。その物質的成果は、『別冊情況』「思想理論編」に掲載されるだろう。

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅱ

(承前)

 

 第六の蜂起 あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)

 

 

 

「つながり」という言葉が大流行している。ネット上で作られる人間関係のネットワークは「ソーシャル」と呼ばれ、従来あった「社会」とは別種のものと考えられている。身体を伴った共同体が希薄化してきているのを補うかのように、ネット上に現れたソーシャルが、オフ会などを通じて身体を伴う共同体を再形成したりしている。

 液体化した人々は、表面張力を通じて「つながり」に対し、相反する二つの力を受ける。つながろうとして接近すると斥力が働いてつながれず、「炎上」のような暴力を生む。過激なセクトやカルトに見られるように、離れようとすると引力が働いて、異分子を許さない暴力を生む。つながることにもつながらないことにも暴力があり、その中間で流動している最適な線の上でいつも揺れながら綱渡りの緊張感を強いられている。

昨年の衆院選で、議員によるツイッターでの「つぶやき」が公職選挙法に抵触する恐れが出た。それも今夏の参院選からは解禁される。サイトやブログに加え、急速に普及しているツイッターやフェイスブックといったソーシャル・ネットワーキング・サービス、さらには電子メールによる投票の呼びかけも全面的に認められるだろう。

他方で、インターネットと、日々飛び交うコミュニケーションは、時に蜂起や革命をも用意しうることを数年前の中東革命は証明した。今やわれ/われはネットという新たな「現実」を獲得し、そこでわれ/われが培い育んだ「連帯」は、社会を変える力をたしかに持っている。

ところがだ。イラーイ・パリサーが指摘している。ひとびとは、好みの情報だけを取捨選択できるフィルタリング技術と作法を身に付けることによって、急速に「閉じこもり」つつある。さながら、ツイッターの各人のタイムラインが象徴するがごとく、私に見える風景とあなたに見える風景は絶対に共有できない。

 だから、自分自身の見えている風景の中での正義を行使することが、他人にとって、リンチに等しい暴力である「炎上」になってしまうことがある。

 

在特会など、ネットと現実の両方にまたがる新しい社会運動は、蜂起を行おうとする個々人の感情を背景としているかもしれない。それはわれ/われが肯定する蜂起と感情的な質を同じにしているのかもしれない。いや、間違いなく、している。だが、彼らとわれ/われは違う。われ/われは、ある集団の存在を自明視しない。ある共同体の存在すら自明視しない。誰かに勝手に作られた枠に留まることはしない。在日韓国人」などという集団として相手を見ることもしないし、「日本人」という集団として「われわれ意識」をもつこともしないだろう。

既存の集団の「輪郭」を飛び越えたりすり抜けたりする、断片的な集合のあり方をわれ/われは肯定する。現実に、われ/われはもうすでにその中に生きているのだ。その変化への反動として、旧来の「輪郭」を求める気持ちはよく理解できるとしても。

だが、本当は存在しもしない敵を仕立て上げて架空の連帯を作る必要などあるだろうか? われ/われはそれが面白いのを知っている。われ/われは、それをオンラインゲームのなかで行っている。ゲームの中で架空の侵略者たちを何百万人と殺害し、崇高なる連帯感を得るのは、とても楽しい。

だが、われ/われは、「われわれ」にならないまま、「われ/われ」として連帯できることを知っている。中国で大規模な反日デモが吹き荒れ、商店が破壊されている最中に、中国人と韓国人のプレイヤーとオンラインで協力プレイをしながら、ゾンビの群れに火炎瓶を投げ込むこともできる。われ/われはすでに国家の輪郭を超えている。自動翻訳の性能が上がれば、言語の壁ももうすぐ越えるだろう。

 しかし、そのようなソーシャルや記号の連帯の中で、「外部」として錯覚されてしまうものがある。それは、身体と暴力、そして死である。だがそれとて、色濃くコミュニケーションの中にある。

 

 二〇一二年の目立った大規模な反原発の行動として、首都圏反原発連合による金曜官邸前行動がある反原連の行動の指針について考えるにあたっては、リサイクルショップ「素人の乱」が呼びかけてなされた二〇一一年の「原発やめろデモ!!!!!」との連関に注目するのが適切だ。

原発やめろデモ!!!!!」を見舞った一つ目のトラブル、一一年六月一一日の新宿のデモで生じた。「原発やめろデモ!!!!!」は、新宿のデモにて統一戦線義勇軍の議長である針谷大輔を出発前アピールに呼ぼうとしたが、デモ出発前ギリギリになりこれを止める。第二次世界大戦を肯定する針谷の登壇を批判する声がTwitter上に生じたことが事の発端になった。さらに、デモ当日には、針谷の登壇を望んだ青年が日の丸を掲げてゲリラ的に壇上へと登るハプニングがあり、針谷の登壇を批判したものたちとの間での諍いが発生した。日の丸及び脱原発右翼を、反原発運動がどう評価し、向き合うか。

原発やめろデモ!!!!!」における二つ目の躓きは、九月一一日の新宿デモでの、デモ参加者に一二人もの逮捕者を出した逮捕事件があった。「原発やめろデモ!!!!!」はこの第二の深刻なトラブルにより、活動を休止せざるをえなくなった。

これらを乗り越えるべく、野間易通ら反原連は、第一に、脱原発のシングル・イシューということを唱えた。反原連は日の丸を容認している。第二に、逮捕者を出さないよう徹底したデモの警備態勢をとる。一八時に始まり、二〇時には参加者に帰宅を呼びかけ抗議を終了させる

毎週金曜日に開催されていた首相官邸前のデモで、「過剰警備反対!」のコールをあげつつ歩いたとする。参加者のおばさんに「そんなことを言うな!」と怒鳴られるだろう。警察と揉めてはいけない、だが抗議はしたいという市井の人々が数多く集まっているのだ。警察との約束に基づき二〇時には参加者を解散させるパターナリスティックとも言える大衆管理の手法は功を奏し、前年の素人の乱のデモを超える大衆動員を現した。毎週同じ場所に同じ時間に集まり続けるというスタイルも、人と人を結びつけ、同種の思想を抱いた市民たちのコミュニティを作り出していくのに一役買った。

だが、このままでいいのか。多数の人々が野田首相原発再稼働阻止を訴えるべく官邸前に集まった日本の社会にとって反原発の行動は、集団で散歩している不審者に過ぎないのか。首相官邸前での、とある反原発直接行動では、ナイフを鞄から取り出した青年が逮捕されるという事件があった。血と暴力、死の匂いと身体性に溢れた出来事であり、ソーシャルにおいて疎外された欲望を見事に体現していた。

だが、これとてデモンストレーションの最中に行われたパフォーマンスなのであり、メッセージであり、コミュニケーションに過ぎないのだ。

 秋葉原での衆議院総選挙の自民党街頭演説では、多数のネットウヨクの若者たちが集まり、無数の日の丸の旗をそよめかせた。そして、朝鮮人は出て行けという排外主義の主張もまた叫ばれた。われ/われは、日の丸の旗を久方ぶりにここに多数見出した。

 二〇一三年三月一七日に、在特会が新大久保で排外主義を謳うデモを行った際、野間易通の呼びかけによって結成されたレイシストをしばき隊」が活動を行い、小競り合いが生じた。

この両者の衝突は単なる暴力や身体の問題ではない。彼らを取り巻く人々の関係性やコミュニケーションや空気の圧力の結果として、行動が起きている。身体的な暴力すら、人々を最も魅了し、メディアに取り上げられ、話題になり、議論の「ネタ」になるための材料になってしまう状況の中では、擬似的な外部でしかない。

外部が消失してしまうかのように思い込ませ、外部に出たと思えばそこもまた内部に反転させ続け、外部への到達を不可能だと思わせ続けるような装置。そのような暴力装置の中で窒息するがゆえに、われ/われは擬似的な外部へと誘導されやすくなる。

 

 われ/われは、時々ある誘いを受けることがある。活動をしてみないか、組織してみないか、その代わりに書かせてあげるよ、本を出させてあげるよ、と。無名で、何の価値もない虫けらのようなわれ/われは、容易くその誘惑に屈してしまう。それは、グローバル資本主義と格差を利用している。

 われ/われは、自分が正しいと思い込み、その手段を正当化するような既存の活動家たちにも蜂起を宣言する。彼らに権威や社会的地位や利権があるがゆえに、そのような蜂起が、自身の首を絞め、生活を脅かすことになろうとも。われ/われはその矛盾に耐え続けることもできないし、黙り続けることもできない。沈黙を強いてくるものが「声なき者」や「弱者」の代弁をしながら利権と資本を行使し続けている矛盾に耐えることはできない。

だから、われ/われは蜂起する。その点では、既存の左翼が権威と化して既得権益をもち、メディアを支配し、様々な真の問題や声を押し殺してきたとする在特会の主張にも、一定の共感と理解はせざるをえないのだ。われ/われは、在日と呼ばれる人に特権があるとは思わないが、彼らの主張の断片には連帯する。ある部分では、それを拒絶する。われ/われは、「われわれ」ではないのだから、そのように連帯する、いや、つながることができる。

 

首相官邸前デモや、フジテレビデモには、身体的な暴力を振るうことを好まない傾向があった。乳母車を押し、子供連れであることに象徴される両者の共通性――それは時に父権主義と訳される「パターナリズム」ではなく、むしろ母権主義的な運動である

とはいえ、身体的ではない暴力もまた暴力であるというふうに、われ/われの社会は感受性を変えてきた。それは産業として感情や人格、コミュニケーションが前景化してきた傾向と即応している。

紫陽花革命やフジテレビデモのような「母性的なデモ」。さらにはソーシャルやネットの次元での蜂起。それらが疎外したがゆえに苛烈化していく、身体的な暴力を志向するデモ。この三つを便宜的に切り分けてみよう。

ここで重視しておきたいのは、「身体的な暴力」を忌避しようとすることもまた暴力を呼び起こしてしまうという点である。

花王不買運動やフジテレビデモなどは、お茶の間で見るテレビに韓流が多いことなどを批判の根拠にしており、母性的なデモであった。一方で「紫陽花革命」もまた、放射線による生活不安や子供の未来を問題にし、子供連れの主婦の多い運動であった。

そこで「暴力」を悪魔祓いすることが困難なのは、「一部の暴走」のせいだけではない。なぜなら、もうわれ/われは、言葉や情報の中にすら「暴力」が存在すること、暴力の定義の無限拡大の可能性に手を染めてしまっているからである。そうなってしまった以上、コミュニケーションにもソーシャルにも、熟議にもカフェにもサロンにも暴力が満ちていることになる。窒息したくないがゆえに、暴力や身体という、コミュニケーションの外部を求めてしまう。

言葉、仕草、ときには存在すら暴力であるという濫喩の世界の中で、暴力を行使する側でありながら暴力を振るわれ、罪責感を促進させ、それを他者に向けてしまうようなスパイラルにわれ/われは追い込まれている。

暴力の位相が変化してしまった以上、われ/われはコミュニケーションに潜む暴力に直面しなければならない。身体的暴力よりも、より容易に加害者にも被害者にもなりうる。そういう世界を、自ら作り上げてしまった。

 この社会は、こうわれ/われにこう命令している。あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)。

 では、「正しい暴力」と「間違った暴力」があるのだろうか。その正当性の根拠は何で、誰がどう判断するのか? つながりの引力と斥力の綱渡りを強いられるように、われ/われはいつも、加害者と被害者の両者を相互転換させられ、どちらにもならないように緊張を強いられている。

 だが、われ/われは告発する。このような生を強いられることこそが、重大な暴力である。こんな緊張度の高い状態で自身を維持するように強いる圧力こそが、われ/われの敵である。

言葉と認識を武器に、精緻な読解によって、この蜂起は、いや記号の内戦状態は、戦うことができる。あなたの打つキーボードの一タッチさえ、ひとつの銃弾なのだ。戦え!

 

 

 

第七の蜂起  昆虫化するポストモダン

 

コミュニケーションやゲームは、現在、脳内報酬系を刺激するようにデザインされている。人間のネット上での行動や、生活の感覚もまたその影響を強く受けている。

 ヤフー・リサーチの主任研究員、ダンカン・ワッツは、コオロギの研究者であった。ある虫が鳴けば、他の虫も連鎖して鳴く。そのような虫のコミュニケーションを研究していた人間が、現在、インターネット上の人びとの振る舞いを観察・研究し、行動を設計している。それは、人間性に対する侮辱に思えるかもしれない。しかし、統計的データを見ると、人間は、自由で責任を持ち行動を自己決定している〈主体〉であるというロマンチックな思い込みは捨てざるをえない。群れとしての人間は、動物でも家畜でもなく、虫に近い集合的行動をしているように見えるのである。人間行動が昆虫のように、現に扱われていることを示す“科学的”データが大量に集まってきている。ある学者はいう。内省的な自意識をもつのは人間のうち三割、その他の七割はそのような自意識を持っていない。様々な覚醒レベルのグラデーションの中で人びとは生きている。ほとんど無意識に近い状態で社会関係をこなし、この世界で生きて動いているときもある。われ/われもまた、時にはそのようなゾンビ状態で生きている。

 現在、かようなまでに脳科学的に人間に働きかけ、人間をコントロールする技術が発展している。Microsoftはその社内に脳・心理学の研究ラボを持ち、その成果をゲーム開発やソフトウェア開発に応用している。パチンコやソーシャルゲームにおける、脳内報酬系への刺激のデザインだけではない。映画も、ゲームも、それから小説さえも、ある特定の脳内報酬系を刺激するだけの装置と化している。脳の一部に、崇高な音楽が鳴れば崇高な感情を抱いてしまったり、特定の視覚的刺激には高揚感や宗教的感情を抱いてしまうようなだらしない部分があることを、われ/われは実感として否定できない。われ/われの脳はそのような単純なシステムであり、そのような単純なシステムを刺激されることは途方もない快楽であると仮定された上で、文化が作られている。

 文化で起こっていることは、政治と無関係であるはずがない。「政治とサブカルチャー」が混在している現在を、われ/われは直視しなければならない。なぜなら、今や政治の現場はネットにも移っているからだ。ネット流行語大賞にもなった「ステマ」(ステルスマーケティング)に象徴されるように、ネット上である商品の評判をコントロールして消費者を誘導する技術は現に存在する。そしてそれは、広告産業が「政治」と大きく結びついてきた歴史を鑑みると、当然政治にも応用されるもの、現に応用されているものと考えなくてはならない。

 

われ/われはすでに経験している。Twitterを通じてある候補に対する否定的な意見を言うとする。するとそれに反論をしてくるアカウントが複数立ち上がる。まったくの別のアカウントながら、なんと反論のメッセージはまったく同一なのである。詳細は不明だ。ある単語を抽出し、それに対する反応を自動化させるbotが使われていたか、あるいはそれに類似する行為を手動で行っていたのではないかと思われる。ことほど左様に、ネット上においてあなたが接する他者が人間なのかどうかすら、ほとんど判別できなくなっている。

だから、われ/われは警告する。“科学”や“データ”を疑う必要がある。それは、広告代理店や、本質は広告会社であるgooglefacebookyahooが自身の価値を誇大に広告しようとしている戦略の一部である。科学とデータの権威を魔法のように使い、「広告」や「マーケティング」のシステム自体を広告する戦略である。マーケティング、リサーチ、マスメディアの利用などにより、昆虫に相互作用を起こさせるようにして「関係性」を操作し、「流れ」を作り出すこのやり方こそが、現在の資本や国家が用いている戦略である。

われ/われは、われ/われを昆虫とみなすその視線を、受け入れよう。だが、巣箱を叩かれたミツバチが人を襲うように、ハチは怒ることができるわれ/われはもはや「動物」ですらない、虫なのかもしれない。だが、われ/われはコオロギでもアリでもない。少なくとも、ハチだ! 昆虫的に自動反応するモジュールの集合であったとしても、そこに蜂起の可能性を秘めた集合だ。脳科学的な脳内報酬に依存する文化が全面化し、その感性により飼い慣らされる人びとがいくら増えたとしても、われ/われのうちのどこかはそれに反発する。「われ」の一部は、コントロールされていることに対して自動的に反発を抱くようにできているのだ。もちろん管理に対する反抗心もまた管理できる。われ/われが対抗しなければならないのは、そのような高度化し、多重化した管理である。

 

虫扱いし、コントロールし、操作しようとする連中に、諸君は腹が立たないか。虫群扱いされてムカつかないのか。単純な快楽の刺激の組み合わせで満足するチョロい連中と思われて不快ではないのか。その後ろで冷めた心で笑っている連中の顔が思い浮かばないのか。

リサーチし、データで人間をコントロールし、マーケティングしている側の諸君も、そのようにコントロールできてしまう人間に、絶望を覚えることはないのだろうか? 人間とは所詮昆虫のように操作できてしまうという現実に――あるいはそのような虚偽を広告することに――虚しさを感じないのか? 虫ならぬ「生きた人間」は世界に自分しかいないのではないか、と孤独感と虚無感に囚われることはないのか? それとも世界を動かし、操る全能感と権力意識に酔いしれているのか? 大衆は非合理な選択をするから適切に導いていかなければいけない、と使命感を感じているのか?

多分、あなたは正しい。であるがゆえに、われ/われはあなたにもまた、蜂起の当事者として呼びかけたい。あなたの抱く、不満、虚しさ、絶望感、怒り、それらの感情を、われ/われの蜂起として発して欲しい。さもなくば、あなたの魂はおのずと侵食されていくはずだ。人間を人間たらしめているあなたの“魂”まで侵食され、そこもやがて昆虫たちのように管理されていくようになるだろう。それが嫌なのであれば――あなたに人間らしい魂があるのだとすれば――叫ばなければ、必ず侵食される。

 だが、もはや人間である必要もないのかもしれない。昆虫のように、botのように、人間もまた断片のネットワークと化してしまって、何が悪いのか? そう、それが幸福であり、不満でなければ、それでよいのだ。不満さえなければ。ほんとうに、不満さえなければ。だが、われ/われにはそれがないとは信じられない。現に、われ/われは不満だ!

 

〈神〉は断片化し、ネ申や「天使」である初音ミクとしてネットワーク環境の中に遍在している。告白などの制度による〈神〉との一対一関係や、書物を沈思黙考することによって養われてきた近代的〈主体〉もまた断片化し、われ/われとなった。

〈革命〉もまた断片化し、遍在している。ネットワーク革命、ベンチャー革命、脳内革命、価格革命、カップラーメン革命……。このように、日常化し、大衆化し、商品化された〈革命〉の断片たちにわれ/われは包囲されている。世界が一挙に終焉し、新しい世界が全的に開かれる〈革命〉は訪れない。存在するのは、車輪の再発明であったり、商品化された革命である。だが、われ/われはその〈革命〉の断片化をさらに推し進める。個人ではなく、モジュール単位で断片化した蜂起や革命がありうるはずであると信じる。神経伝達物質とシナプスの間にも蜂起や革命はありうるはずだと。量子論的な波動の中にも革命はありうると。歯磨きしているときに水を流しっぱなしにしないだけで月々三五円の節約になる、と発見することもまた革命であるには違いないのだ。

 われ/われは誰でもない。だから、どこでもない場所、ユートピアに最も近いところにいる。いまここにある蜂起のなかに、たしかにユートピアが見える。ユートピア的衝動が横溢する、矛盾のただなかに。ユートピアの不可能性のなか、不可能でもユートピアを望んでしまう衝動のなかに。

 そこにある蜂起のなかに、われ/われはいる。この蜂起は孤独な蜂起ではない。われ/われの断片化した一部はつねに互いにつながっている。決して孤独な蜂起ではない。見えないところで起こっている、蜂起とは見えない蜂起の連鎖が、やがて社会を知らず知らずのうちに更新するだろう。

われ/われは何度も失敗し、何度も絶望し、それでも何度も夢を見るだろう。繰り返し繰り返し蜂起が失敗しても、蜂起の失敗に対してさえ蜂起を起こすだろう。希望が失望に反転する悪夢的な歴史に由来するシニシズムに対しても、悲惨に帰結するであろう安易な楽観主義に対しても蜂起を起こすだろう。繰り返し生起する乱反射的な蜂起のなかで、乱反射的で分裂的なわれ/われの〈革命〉は少しずつ進行していくだろう。かくして、新しいわれ/われの〈新しい生〉の領域は確実に広がっていくだろう。臆することはない、現実の土地や政府の領域を超えて、別種の生が、別種の王国が、着実に、見えないところで育っている。

 われ/われは誰でもない、だから、誰でもありうる。われ/われはどこにもいない、だから、どこにでもいる。

 われ/われはそこにいる。あなたがたも、また、すでに。

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号