名無し委員会

われ/われ、”名無し”の群れは、ここにこうして政治的意見を発表する。その物質的成果は、『別冊情況』「思想理論編」に掲載されるだろう。

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅰ

(承前、本稿は『別冊情況』思想理論編第二号に掲載される)

 

 第四の蜂起 Enjoy!Enjoy!Enjoy!!!

 

 今朝マクドナルドで朝食を食べた。レジで母親と同じ年齢ぐらいの優しそうな店員が「朝マックのソーセージマフィンを無料でお試しいただくキャンペーンをやっています!」と大きな声で呼びかけている。

 以前からマクドナルドは、無料クーポン配布のキャンペーンを行っていたが、現物を無料でその場でくれるなんて! ここまで来たか、マックキャンペーン……刺激をどんどん増幅させてゆく無料キャンペーンに胸が高鳴り、思わず「お願いします!」と申し出を受け、ソーセージエッグマフィンを食べた。子供の頃から馴染んだ、かりっと焼けたバーガーとマフィンとジューシーなチーズ、その味は、企業努力の成果であり、自分で作る朝食などよりもよほど美味しい。しかも今日はまさかの無料! 

 マクドナルドは、二〇一三年の一月に約一ヵ月間「Enjoy! 60秒キャンペーン」と呼ばれるキャンペーンを行った。客が商品を注文してから六〇秒以内に店員が商品を提供できなければ、無料バーガー券を発行する。基本的にハンバーガーの作り置きはせず、その場で作って袋に包みドリンクも入れ、サイドメニューなども確実に提供しなければならない。カウンターには六〇秒を測るマクドナルドカラーの赤と黄色の砂時計が置かれる。イエローの砂はアッという間にさらさらと落ちて行く。無料券はたくさん支給された。

例えば、手の込んだメニューを一〇個頼んだとしよう。昼時の混雑時に勤務シフトを入れている店員が、このキャンペーンで砂時計の黄色い砂の落ちる音と共に、形容し難い悲鳴を上げ、テンパる。そして「テンパった状態」が常態化される。なにがEnjoy!だクソ野郎、と思う暇すらない。

しかしそこは世界のマクドナルド、ネガティブな反応を見越していないはずはない。このキャンペーンは、ネットですぐに大きな話題となった。「60秒キャンペーン」と検索すると実際に「(バイトを)やめたい」という書き込みがすぐにヒットする。他方で、「60秒キャンペーン攻略法」などと題し、「揚げたてポテトの塩抜き」などという時間のかかるメニューを頼み、無限に無料券で食事をしようとするゲームの攻略方法などがみつかる。

一方、多くのネットユーザーは店員に同情する。「そこまで急いでいない」、「誰得(誰が得するんだ)キャンペーン」などと、マクドナルドに対する批判の声が多く書き込まれた。不必要であまりに酷いキャンペーンとして、話題をさらった。ネットでは雇用者側が現場の働き手をいかに物扱いしているか、という論調が多かった。しかし、多くのテレビや新聞でこのキャンペーンはニュースとなり、ネットで話題をさらったわけで、企業=日本マクドナルドとしてはゲームの第一章を簡単にwinした。店員の悲鳴や批判的な世論などは関係ない。それも織り込み済みのゲーム設計だからだ。

日本マクドナルドホールディングの広報は、この六〇秒キャンペーンを行う理由の一つにマクドナルドのスピーディーさをゲーム感覚で楽しんでもらおうという意図から開始した」としている。混雑時のイライラを、六〇秒で商品が来るかなというドキドキに変え、店員の仕事の効率も上げ、待ち時間を短縮しゲームにする。知らない合間に脳内報酬系が作用し、Enjoy!と客に提供される。

ゲームをプレイした者は、結果や思想がどうであれ、体験をSNSなどに書き込んでしまう。ゲームに参加した者は、文句を書いたとしても、そのゲーム体験は脳に残る。そして快楽と化し、またマクドナルドに反応してしまうのだ。マクドナルドの仕掛けたゲームの落とし穴に多くの人間がはまり、twitterfacebookなどのSNSやブログや匿名掲示板には、おびただしいマック商品の画像があがった。時に店員が急ぎすぎてダブルバーガーが崩れたり、包装がチグハグだったとしても、その画像は笑いやマクドナルド経営者への批判として、崩れたハンバーガーたちはネタとして、コミュニケーションの安い材料として見事に消費された。マクドナルド・ブラックの企業ネタは現実に賃金闘争や労働改善の風をおこすことなく、ネタとしてネットを泳ぎ続けている。このゲームを真に操作し楽しんだのは客でも店員でもなく、実はマクドナルドの経営者たちなのだ。

 われ/われは、安いもの、馴染んだもの、ゲーム性の快楽をそう簡単に捨て去ることはできない。それは当然だ。だが、叩き台のネタとしてしばしば叩かれるマクドナルドが恰好のネタを提供してきたとしても、それに安易に乗って叩くだけで終わっていいのか。ネットで内輪揉めをして充足するだけでは、自分の身を安い材料としてマックのゲーム設計に捧げているだけなのだ。

 経営者-サービス労働者-消費者-SNSと巡る蟻地獄のような循環と逆循環。だが諸君、真に面白いゲームとは、「ゲームのゲーム」すなわち、そのゲームのルール自体を作っていく/変えていくゲームではないだろうか! だとするなら、このようなゲームのコマにされ続けている労働者、消費者が、一転して戦うプレイヤーになれば、ゲームそのものに新しい展開が生まれるだろう。 

マクドナルドの店員がキャンペーン当日、満員の客を前にして一斉にストライキを行うというゲームを始めるとしよう。次の一手が繰り出されるだろう。それは雇用者側からの仕掛けかもしれないし、キャンペーンを望む客からのアクションかもしれないし、SNSユーザー・ネットからの後方支援かもしれない。マスコミも参加するかもしれない。そのゲームが一通り成功しても、安売りが終わって商品の値段があがり、次は業績不振を理由に店員の雇用が切られるかもしれない。そうしたら、また、次のゲームを始めればよい。

既存の労働組合も、生活協同組合も、真に必要な非正規雇用者の救済に動かないのであれば、われ/われがゲームを自らの手で行うしかない。たった六人の非正規雇用者でストを行った東京メトロの勇敢な売り子たちに続くのだ。

そう、マックが用意した合言葉、Enjoy!と叫びながら。EnjoyEnjoyEnjoy!!!

 

 ゲーム化が行われているのは消費の場面だけではない。自らの身体・人格・知性を労働市場の商品として売りに出す就職活動にも、ゲーム化は起きている。

 リクナビ、マイナビに代表される就活サイトがスタンダード化したことにより、学生は企業の情報を簡単に手に入れられる時代となった。ネットで誰もが簡単に応募できるようになったお陰で、勝率の低い賭けを下手な鉄砲のごとく数多く撃たされる羽目になった。そして、「就活」と呼ばれる活動の攻略法が作られた。

他のライバルに遅れを取らず、自分をより良く見せる方法が無難な「お手本」として確立される。負けたくない学生たちはそのお手本を模倣し、それが自分の形に当てはまるように心身を矯正することによって、苦難のゲームに挑むことになる。その結果、就活の場面では、「お手本」になりきる力と、相手の質問に相手が喜ぶ答えを返す能力が試されることになる。その質疑応答すら、パターン化される。それを逆手にとって、「ここが個性の発揮される場所なのだ」という話になりそうだが、これこそ罠である。一旦、「お手本」によってフラットにされてしまったハードの上に乗せられる個性など、個を司る芯には成り得ない。

 企業は、個性を殺してお手本に忠実になった学生に魅力を感じるようになる。もちろん、大企業では「個性的学生」の採用も行なっているはずだ。しかし、倍率が百倍を軽く超すようなシチュエーションでは、余程の魅力をもった個性でなければ埋もれてしまうだろう。また、中小企業は採用人数が少ないため、人とは異なる異質な人材を入れるリスクに躊躇してしまう。こうして、無難であることが唯一の道になってしまうのだ。

 ゲームと割り切って「お手本」通りに生きれば話は早い。だが、世の中にはそのような社会に適応することに疑問を持つ、あるいはできない人々もいる。その場合、社会と真っ向から向き合うことになる。

簡単なことではない。コミュニケーションスキルに難があり、上手く面接ができない人間が社会と向き合って生きていくには「他者より遥かに秀でた才能」が必要となる。作家でも、画家でも、音楽家でも、何らかの分野において飛び抜けた人間が到達できるラインに、諸君は登らねばならないからだ。それはやはり、難しい。

ネットで誰でも表現ができるということは、同時に、誰もがトップの表現者と常に同じラインで評価されるということを意味する。そのシビアさは心理的にあまりに苛酷である。

社畜になるか、バイトをしながら「才能」の夢を見続けるか。その二択しかないかのように見せかける社会などというものに、われ/われは疲れ果てている。「才能」などあるかどうか分かりもしない。成功者に後付で「才能」というラベルが貼られるだけだ。われ/われなどは、連射される機関銃の一発でしかない。何万発に一発が的に当たれば、それでよい。

叶う確率が現実的に考えればほとんどないに等しい夢を追い、自己正当化のために現実を見られなくなり、「表現者ビジネス」に金を搾り取られ、精神を破壊され、打ち捨てられる。そんな悲惨な未来をわれ/われは受け入れない。われ/われはビルから飛び降りたくはない。そのような産業要請がこしらえた「才能」の自己分析の無限迷宮の中に閉じこもる気はない。

対峙し、ゲームのように、楽しみながら戦うしかない。それしかない。

 

 

 

 

第五の蜂起 コミュニケーション=空気の監獄

 

 大阪のスポーツ名門高校で、部活の顧問が生徒に体罰をあたえ、生徒が自殺するという事件が起こった。体罰による死は、初めてのことではない。その度ごとに体罰をめぐる議論が起こり、再発防止が声高に訴えられる。にもかかわらず、これからも「指導死」は起こるだろう。これは体育会系に今も残る日本特有の封建制の残滓だと識者たちは言うが、それは違う。

 今回の体罰死をうけメディアで意見は割れているが、識者たちはその暴力の現代的な質を決定的に見逃している。「体罰絶対反対」から「暴力は駄目だが、体罰は認めるべき」、極論として「生徒には体罰を受ける権利がある」まで、議論の幅がある。

現場では、指導と暴力のあいだのグレーゾーンが、巧みに利用され、教師による生徒へのむき出しの暴力は、教育的指導という言葉と両者の人間関係により隠蔽されてきた。なぜこのようなグレーゾーンが生じるのか。学校という制度そのものに欠陥があるからだ。

 学校は権力である。幼き身体を、国民=労働者/兵士へと鍛え上げる。「労働者にあらず」という〈非‐労働者〉を学生にわりあてるのではなく、「まだ労働者ではないが、労働者化の過程にある」という〈前‐労働者〉を学生の社会的身分としてわれ/われは提示する。

〈前‐労働者〉として学校で受ける暴力は、社会の暴力であるだけではない。学校こそが、社会を生み出している。たとえば、「学校」を舞台にしたエンターテインメント小説の大流行を見れば、それは明らかであるだろう。学校/社会という境界は崩れ、社会こそが学校化したのだ。

学校倫理をあまりにも内面化している学生生徒は、学校による身体の管理に、時に自ら喜んで身体を差し出す。一昔前の流行歌のように、「行儀よく、真面目なんてできやしなかった」と叫ぶ意志が、分かりやすい反抗が、既に消されている。「ディシプリンからコントロールへ」とドゥルーズが看破したように、これは権力の統治形態の変化と連動している。

権力としての学校が生徒を管理するやり方が変化している。学校が体罰を温存する環境であることは否定できない。だが、その一方でかつてよりも体罰が減ってきているのはたしかだ。より「人道的」な指導方法が提唱され、実践されてきた。少子化もその背景にある。暴力的な管理の必然性が薄れてきている。

その結果、身体管理の方法が、身体に直接的に影響をあたえようとするところから、コミュニケーションをめぐるものへとずれている。暴力(体罰)は、固体としての身体へ加えられる物理的な力だ。「矯正」である。ところが、コミュニケーションは、身体を液体のようにあつかう。液体化した身体は、自らの外縁をうしない、どろどろと不定形のまま、その場の空気によって流れが支配される。「伝えるべきメッセージ」からはいつの間にかメッセージが脱落し、「伝えるべき」という事実性のみが残る。

 かくして幼少期から訓練する身体の技術は、コミュニケーションとして結晶化する。固体であれば矯正に抗うことが反抗となったが、液体にはそもそも矯正が機能しない。液体化した身体の関心は、いかに表面張力を駆使し水滴どうしで結合しあうか、ただそのことのみにある。学校の教室では目的としてのコミュニケーションが前景化し、各人のコミュニケーションが複雑に重なり合って、その場の空気を作り出す。

 われ/われはその中で窒息している。だが、同時に、その空気を作り出していることもまた深く自覚している。窒息させられながらも窒息させる環境を相互に作りあう被害=加害的な世界の中で怯えている。このような相互に織り成す不信のネットワークの監獄から飛び出し、外の空気が吸いたくなる。コミュニケーションは必要なことなのか! 良いことなのか! 少なくとも、それは絶対的なものではない。

 

コミュニケーションが重要なものとみなされるのは、社会が労働者に対して「コミュニケーション能力」を要求しているからだ。第三次産業が主要な産業と化した現在では、サービス業、アナリスト、アーティスト、作家、管理職、ケアマネージャーなど、人と人の繋がりや情報を商品にする産業が繁茂している

しかし、ブラック企業の店長候補も、ひたすら機械的に打ち込みの作業をするのも「第三次産業」である。広告産業やマスメディアや世界的な芸術家も「第三次産業」である。これらは、実際にその待遇も仕事内容も異なっている。実質上奴隷労働に近いような第三次産業も存在する。同じような「流動性」に直面していることは事実でも、創造性とそれに付随する「開かれ」に期待できるかどうかという差異は確実に存在する。

 このことが、プレカリアートたち、非正規雇用者たちの連帯を分断する亀裂となっている。クリエイティヴィティが正のフィードバックにつながる人々と、単調な労働の中でバーンアウトになるという現実。この二つは、未来の展望が、希望の持ち方が、開かれ方が、根本的に違う。たとえ前者にあるとされる「希望」が幻想であったとしても、後者から前者への憧れと憎悪は発生する。

 コミュニケーションや記号操作に希望を見出すことができ、イノベーションを起こし、新たな地平の輝きにいるように見える人々と、ただひたすらコンビニで接客し、クレーマーに対処し続け……という人生。両方とも、コミュニケーションを実体とする仕事をしている。だが、後者の方がより窒息感が高い。であるがゆえに、「希望」を求めてしまう。前者との分断はそこで生じる。

 その分裂を生み出しているのは産業構造の変化と、必要とされる労働の変化である。それらが、われ/われの内面を作り変えようとしているのだ。そしていま起こっている蜂起は、空気の窒息感により外に出たいと思う人々の蜂起である。希望を求めての蜂起である。

 

子供たちは、自己目的化したコミュニケーションを繰り返し、どこまでもその環境の内圧を高める。空気の読み方は、意図して身につけられるものではない。自然な身のこなしとして表出し、空気の存在は読み違えたときに初めて意識される。言語ゲームのルールのように、その場に居合わせた者たちの手によってその都度作り上げられていく。

 そしてこの空気は、空気として存続するのに必要なテンションを保つために必然的にいじめを生み出す。子供たちは、コミュニケーション力を軸に序列化され、スクール・カーストを形成し、下層の子供たちは上層の子供たちによっていじめの対象とされるリスクが発生する。

一部の論者は、体罰やいじめを減らすために、外部の目を導入すべきだとする。だが、学校の外の社会に出たあとも、陰湿ないじめ/パワハラ/セクハラ/退職強要といったブラック企業的暴力は横行している。学校でのいじめを通じて、被害者も加害者もそんな社会で「働く」ための予行演習を、まさに〈前‐労働者〉として行っているのだ。

 学生としてのあなたは〈前‐労働者〉として、同調圧力とコミュニケーション至上主義を体感する。卒業後、コミュニケーション至上主義によって馴致されたあなたの身体は、グローバル化の波にさらされた崩壊寸前の日本企業によって、最後のエネルギーをかすめとられる。日本型経営の悪しき側面だけが何十倍にも濃縮されたブラック企業は、解雇にともなう訴訟リスクをヘッジするために、ソフトな退職勧告を職場の空気によって行い、若年労働者を次々と廃人へと追い込んできた。ブラック・グローバル企業は、日本の労働者と社会資本をむさぼりつくし、海外へと逃亡していく。

 

ノマドという言葉が発明された。「ノマドと社畜」などという言葉もある。

ある外食産業に正社員として務めているわれ/われの一人は、これを経験した。一年間で四回の転勤で、北海道、福島、北関東を転々とさせられた。2週間前に出される辞令によって、人間関係も生活基盤もまっさらになりながら、移住していく。

定住をしないのだから、まさにノマドであり、しかも社畜である。彼女は、この数年に何度も交通事故を起こした。仕事先が一二〇キロ先の距離にあり、睡眠が取れていなかったからである。真冬の高速道路で車がひっくり返り、割れた窓から吹雪が吹き付ける中、家まで帰った。これが、ノマド、かつ、社畜の運命である。

われ/われの忍耐はすでに限度に達している。これでいいのか。あなたがたはこの空気の監獄の中で息苦しくはないのか?

われ/われは権力としてのコミュニケーションに対して蜂起しなければならない。相手が管理者であれば、空間的・物理的に有限であった。しかし、いまや権力はコミュニケーションだ。われ/われには、どのような蜂起の形が可能であるのか。

 われ/われを支配するコミュニケーション。われ/われを取り巻くコミュニケーション環境。それは、使い方によっては抑圧する権力を液状化し、拡散させることができる。話は簡単だ。教師に殴られたとしよう。それをケータイで録音しろ。録画しろ。ウェブにアップしろ。匿名掲示板で告発しろ。ツイートしろ。フェイスブックでシェアしろ。YouTubeニコニコ動画にアップしろ。弾幕をはれ。「いいね!」ボタンを連打しろ。RTしろ。

 そのようなネットワークやソーシャルメディアもまた、暴力と化してしまう逆説を理解しつつもなお、われ/われはその可能性に賭ける。なぜなら、テクノロジーとは、本来、人間に力を与えるものだからである。使えるテクノロジーであるならば、合法的にそれを使わない理由はない。行使し続けよ、そして政治の概念も、われ/われの力のあり方すらも、更新してしまえ。

 

 

 

Ⅱ-Ⅱに続く) 

 

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号