いまここにある蜂起 Ⅰ-Ⅰ
われ/われは、『別冊情況』「思想理論編」第一号に寄稿した「いまここにある蜂起」の全文をここにフリーで公開し、名無し諸君とシェアする。
『別冊情況』の原稿はあくまでも物質的な成果のひとつであり、「名無し委員会」の生命はあくまでもネット上で好き勝手につぶやく名無しの中にある。
なので、自由に引用、配布、拡散し、ネタにし、哂い、批判し、議論してほしい。
その中にのみ、生命は、宿る。
いまここにある蜂起 第一回
名無し委員会
序 蜂起とは、ハチの巣を飛び出すことである!
蜂起とは、街頭に出て、バリケードを作り、石を投げるということ“だけ”を意味するのではない。そのような、伝説化され、フィクションの中で流通している光景を反復することだけが、蜂起なのではない。蜂起とは、その漢字が示すとおり、「ハチ」が「起きる」ことである。すなわち、ハチの巣を突付かれたハチが怒って飛び出してくる、それが蜂起である。
蜂起は様々な形で起こりうる。もっとも身体的なレベルとしては、鬱病や精神病、それから錯乱、怒りの発作、教室の中でじっとしていられない、などという身体の蜂起や精神の蜂起もまたわれ/われは蜂起と考える。それは個別の遺伝子や脳に起因する問題ではないかという批判に、われ/われはYESと答えよう。だが、人間とはそれぞれ個別の身体と脳と精神を持ち、個別の感受性の中を生きていることを忘れてはいけない。皆が、「均質な人間」であるなどというフィクションは間違いなのだ。それゆえ、蜂起は、それぞれが、それぞれの形で起こしうる。というか、今すでに、ここで起きていることこそが、蜂起なのである。
何が政治なのか、何が政治ではないのか、それを勝手に決め付ける声に、われ/われはうんざりしている。「なぜデモをしないのか」「なぜ石を投げないのか」という声にもまたうんざりしている。その人間の使っている「政治」という言葉は、議会政治と街頭行動だけを意味しているのだろうか。そのような「政治」とは何かのイメージを、言葉を操作することこそが「政治」であることを、彼らが知らないわけはない。
われ/われが奪還すべきは、なにを「政治」と名指すかである。いわゆる議会や社会運動などの「政治」に心の底からうんざりするのは、それがその外部にある「政治的なもの」を取り逃しているからである。
その「政治的なもの」は、イメージや言葉を操作することであったりもする。あるいは、サブカルチャーや芸術作品の中にあったりもする。Twitterや2ちゃんねるに書き込むことのなかにも蜂起があり、「政治的なもの」はある。ゲームをプレイしているとき、二次元美少女に恋をしているときにさえ、「政治的なもの」はある。
「政治」というのが、議会政治や社会運動に限定されたが故に、個々人の「こういう世界にしてくれ」「こういう世界にするのはやめてくれ」という希望と、いわゆる政治とが切り離されてしまっている。それこそが、政治に対するシニシズムの原因であり、政治が心の底からどうでも良いと思う根底の理由である。
その「政治」や「社会」像は、古び、錆び付き、崩れかけているのが誰の目にも明らかだ。新しい生存、新しい願望、新しい夢を、それは全く反映できていない。それらは既にあり、示されているのだが、古びた「政治観」や「運動観」のフィルターによって目や脳に入らなくなってしまっている。ここに示すのは、「いまここにある蜂起」であり、それを示すことによって、「政治的なもの」をもまた「政治」に組み込む、あるいは「政治」という言葉を奪還することを目指す。
未来には、もはや未来がない。だが、「未来がない」という言説にこそ未来がない。その場合の「未来」という言葉はなにを意味しているだろうか。高齢化、少子化、環境問題、原発事故の処理、経済不況…… そういったものを「未来」として決め付ける言説をわれ/われははねつける。そんなものはいらない。「未来がそうだ」と決め付ける言説が未来に生き残る命脈をこそ絶つ。
どんな未来を望むのか、どんな未来がありうるのかについて、決めるのはわれ/われ自身である。ディストピアであれ、ユートピアであれ、押し付けられるのはまっぴらごめんだ。われ/われは、個々人がそれぞれ真になにを望むのかを尊重し、それを自らの胸に問い、それを声にする。
見当違いの「経済」や「政治」などを全面的に破棄するための政治を、「闘争」概念の勘違いを正すための闘争を、ここに開始する。
それこそが、われ/われが語る、「いまここにある蜂起」である。
それは、もうすでにあるにも関わらず、あなたたちが見ないようにしていた、既に起こっている蜂起である。あるいは、あなたはもう既に気付くことなく、孤独な蜂起の戦いをしていたのかもしれない。恐れることはない、あなたは一人ではない。あなたは孤独ではない。それぞれの場所で、それぞれの蜂起が行われている。そしてやがて、それらの小さな蜂起が世界を変えるだろう。そう信じることこそが、まずひとつの重要な蜂起なのである。
蜂起の始まりは、自分自身と対話することである。自分自身の身体や精神の悲鳴や声を、あなたの意識は抹殺していないか? 自分自身の声にならない声をまず聞くこと、その動きを認めること、そこからしか蜂起は始まらない。
そしてその対話の後に、言語や表現として、それを社会に投げること、自身の望みや不満を自覚し、それを表明するために必要な勇気によって、まずひとつの蜂起が始まる。「これではたまらない」、「諸君、これでいいのか」と。それぞれの個別の蜂起がやがて世界全体を揺らす。まず個人の中で、そして個人がそれを表出し、時にはそれが大きな形になり、蜂起は行われる。なによりもそれは対話や言語として、表現として生じる。その「対話」の形が時に暴力的であれ、表現が「症候」のようであれ、それはひとつのコミュニケーションなのだ。コミュニケーションに踏み出すという勇気と決意こそが、あなたの存在を大きく革命する、巨大な蜂起なのである。
われ/われは街を歩くと、本人が望むと望まざるとに関らず、いたるところに配置された監視カメラによって姿をとらえられる。防犯カメラは学校や病院にすら設置されている。カメラ付きケータイも常に持っている。秋葉原の無差別殺傷事件のような何かがあれば、その場にいるものたちは被害者でありながら、報道者となりえる。芸能人がお忍びでやってきたレストランで、従業員が彼らの挙動をウェブ上で「実況」する。これら「つぶやき」は監視の対象とされ、何かあればすぐさま非難・攻撃・炎上の対象となる。
われ/われはウェブ上に、ありとあらゆる履歴、存在の痕跡をまきちらしている。メールの文面、アマゾンと楽天の購入履歴から、われ/われの顕在的・潜在的欲望が特定される。タイプした文字は蓄積され、言葉と言葉の間を繋ぐ想像力すら先取りされる。われ/われはウェブ上では文字通り、網のように拡散しつつ絡み合った存在へと姿を変えている。
背後をみれば膨大なデータの蓄積。行く先を見渡せば、先取りされたわれ/われの欲望が形となりつつある。気がつけばわれ/われは囲まれている。われ/われの「意志」はひょっとしたらこの網の中へと吸い込まれ、実体を失ってしまったのではないか、と不安に思うかもしれない。しかし、それは杞憂だ。
リアルでもヴァーチュアルでも断片化されひとつのデータとして蓄積されるわれ/われは、不安にかられて「かつてのように、一つの実体としての私」を取り戻したい、と思うかもしれない。でも、それは不可能だ。そもそも「一つの実体としての私」などというものは、いまだかつて存在したことはない。
「われ」とは「一つの実体としての私」であり、「われわれ」とは、党派や国家などのような均質な主体の集合である。われ/われが提示する「われ/われ」とは、個でありながら集団、集まり散じ、「集団や組織」に必ずしもアイデンティティの全てを預けない、そういった主体である。それはなにがしかの党派や理念を代弁しないし。「われ」の中にも、矛盾し、相克する様々なモジュールが独立して作動している。そのモジュールは個人の単位を超えて接続され、作動する。
「われわれ」は「われわれ」であるために常に想像力を必要としてきた。近代国家が実体として形成される過程で、標準語、新聞、近代文学などが果たした役目は大きい。これらのメディアによって、事後的に「私の意志」は「われわれ」に注入された。もともと私の意志などどこにもなかったのだ。
今、われ/われが生きるこの社会は、近代の先にあるポストモダン社会ではない。そうではなく、近代を徹底させたのが今の社会だ。発想を転換する必要がある。われ/われがウェブの網の目へと溶け出しでいったのではなく、ウェブの網の目があることによって、われ/われは遍在することができるようになったのだ、と。
われ/われはどこへでもいけることができる。われ/われは誰とでも繋がることができる。
昨今では、このようなウェブ的可能性が、否定的なものとしてとらえられる傾向にあるが、今一度、これらの可能性を肯定的に評価してみよう。われ/われは歴史上初めて、われ/われ自身の輪郭を、とらえられるようになったのだ。「いいね!」ボタンの連打のなかに、ツイッターとタイムラインのなかに、ケータイの電話帳のなかに、グーグルの「もしかして」リストのなかに、われ/われ自身の姿が見える。それをセキュリティともコントロールともいえるが、われ/われはそれを肯定的に受け入れ、積極的に構築していくことができる。
「anonymus」と呼ばれる集団が、サイト攻撃などの方法で社会的行動をしている。これは企業・政府に対する、街頭行動以上の効果を持った行動である。彼らは、匿名で、遊びのように抗議活動を行う。「集会」ではなくあくまで「オフ会」と称して集まる。誰も代弁者になれないし、リーダーもいない。中心不在の、stand alone complexな群集がここに生まれている。
その起源は、SF映画『マトリックス リローデッド』におけるエージェントスミスに遡れる。アノニマスのオフ会では、黒のスーツに、同じ仮面の装着が義務付けられる。これは、『マトリックス リローデッド』における複製可能な匿名の群れであったエージェントスミスと、それを模して各地で行われた悪ふざけのオフ会(スミスの恰好で、ある時間・ある場所を決めて集まる)の延長線上にあるように見える。当時、それはフラッシュ・モブと呼ばれ、お遊びに分類されていた。しかし今、その遺伝子を継ぐ運動は、明らかに政治性を持った脅威として認識されている! 単なるSF映画から、お遊びとして受肉化したものが、現実の「レボリューション」に関わろうとしている。それはまるで映画『マトリックス』三部作の完結篇『マトリックス レボリューションズ』の遺志を継ごうとしているかのようである。
フィクションとお遊び、そして政治と現実は、かくも多様で複雑で信じられない軌跡を描く。そして「たかがネット」「たかがサブカルチャー」であったものの潜勢力が、今「政治」を包囲し、総攻撃を仕掛けている。
いまここに、蜂起は既に始まっている。さあ、それぞれのハチの巣から、それぞれのやり方で飛び出し、飛び回れ! われ/われこそが、蜂起の主体、アノニマス・名無しの主体なのだ!
第一の蜂起 ゆとりにゆとりを!
もしかしたらあなたの子供は滝に打たれているかもしれない、というところから始めよう。温かいゆりかごから二〇余年、巣立ちの時期を迎えた彼らは、吸い寄せられるように滝に導かれる。「滝行で内定獲得へ」。就活難に苦しむ若者たちは、寒さに震えながら滝に打たれ、「内定獲得」への決意を新たにするという。
このようなセミナーを、馬鹿らしいと思うだろうか。
平均、五〇社から一〇〇社あまりの企業にエントリーしながらも、「御社に決めた理由」を笑顔で語り続ける日々。早期化かつ長期化する就活にお金も身体もすり減らしてゆく。滝行はそんな茶番につき合わされた若者の行き着く先にある。
働きに出る前に、すでに藁にもすがる思いで弱り果てている若者たち。就活を苦に年間一五〇人が死んでいる。学生の自殺者は二〇一一年に調査以降初めて一〇〇〇人を超えた。
苦行の末に内定を得たとしよう。次は「新人研修は自衛隊入隊」だ。「ゆとり世代」の新人を即戦力として鍛え直したいと考える企業が増えている。滝をくぐり抜けた先に見るのが、自衛隊の訓練場。二泊三日、一人五〇〇〇円で新入社員は駐屯地に送り込まれる。
滝を抜け、匍匐前進し、ようやく職場が見えてきた。「入社二か月で自殺・労災と認定」。大手居酒屋チェーン店に勤める二六歳の女性が、過労と精神的負担により入社してすぐに自殺に追い込まれた。日記にはこう書かれていた。「体が痛いです。体がつらいです。気持ちが沈みます。早く動けません。どうか助けて下さい。誰か助けて下さい。」
このように過酷な労働を強いる「ブラック企業 」は、不景気とあいまって日本全国に存在する。日本の労働時間は世界で二番目に長く、職場でうつ病を患う若者は決して少なくはない。また、六五歳定年制の義務化により、新入社員の昇給率を抑える企業も出てきている。これが、日本の就活戦線を勝ち抜いた若者が発見する「約束の地」なのである。日本は就職できずに自殺する若者がいる一方で、過労で自殺に追い込まれる若者もいる「出口なし」の労働環境にある。
以上、修行(就活時)→訓練(入社時)→ブラック企業(勤務時)というコースを見てきてわかるように、働くという行為を支えているのは現代では「精神論」である。そして労働世界の虚構を知りたければ、若者が置かれている状況を常に見ればいい。フィクションを維持するために生じる様々な矛盾が、そこに押し寄せられている。滝に打たれながらも、「就職したい」という煩悩まで消し去ってはならない。あくまで、解脱せずにお金の輪の中にとどまることが求められる。また入隊せよと言うものの、武器を取って立ち上がってはならない。管理に都合がよい精神だけを身につけて帰ってくればいい。このような矛盾の中で引き裂かれながらも、それを「当たり前」に感じることができる主体が次々と作り出されていく。
賃金の動機づけや消費の快楽を与えられない現代の労働は、働く者(働こうとする者)の精神に直接的に介入することによって、壊れかけた幻想の底を取り繕う。
ここにあるのは、政府、企業、大学が三位一体で行う、システマティックな搾取構造である。長時間労働により、思考ができない状態に追い詰められる。矛盾があっても知覚できない。新入社員がいきなりさせられる「管理職」とは名ばかりで、バイトと会社の板ばさみにされ、またしても引き裂かれることになる。精神を病んだ社員はいくらでも補充が利くので使い捨てればいい。労組は名ばかりになり、たとえ自殺をしたとしても労災はほとんど降りない。戦う意志が萎えるように、挫けるようにシステムができている。
そんなアリ地獄のような理不尽の中に学生は次々と投下される。かつての日本の夢、労働の夢を信じている学生は無尽蔵に供給される。夢破れて病気になった学生は、自己責任であると責められる。睡眠時間が四時間だったり、二週間後に福島に転勤しろといきなり言い渡されるシステムがある。労働基準法は目が届かない。「空気」による自発性を利用したコントロールによって、自発的なサービス残業が行われている。しかし、その自発性は、「自発性を発揮しろ」という命令によって発揮された自発性である。このような責任の在り処を拡散させる陰湿なコミュニケーションの暴力は構造化され、システム化している。生命を吸い取り、金に変え、老人の延命装置に利用するためのシステムがここにある。「生かさず殺さず」ですらない、「死んでも構わない」とばかりに生命と未来を奪い取り、金に変える。これがこの国の現実だ。それをわれ/われは〈生命資本主義〉と呼ぶ。今この社会は、生命を金銭に変える〈生命資本主義〉である。
諸君、これでいいのか。
年間三万人が自殺をするならば、十年で三十万人である。その人数は、青森市、奈良市、長野市、高知市の人口と同じぐらいである。想像してみて欲しい。その規模の都市の住人が全員自殺し、自治体が消滅するのを。
SNS上での呼びかけに応じて、就活に不満を持つ一〇〇人以上の若者たちが就活に対するデモを行った。彼らが掲げていたプラカードの一つに「ゆとりにゆとりを!」というスローガンがあった。これこそ、今の若者の「蜂起」の言葉である。
大学は過去の希望を信じ、しがみつき、それが「学生にとって良いこと」と思い続けている。入学してすぐに始まる就職適性検査、構内で掲示・配布される公務員の情報、就職活動に有利そうなサークルやボランティア活動。大学は学生に「良いお客様」であることを求める。そして、大学が求めている以外のキャンパスライフ、人生を送ろうとすることに大きな困難が伴うようにしてある。
多くの学生にとって大学は授業に出て、単位を取るだけの場所に成り下がっている。驚くほどに無菌室的な空間が作られ、その秩序が破壊されることがないように強固に守られ続けている。そのため、大学という場において異質な他者と出会うことはほとんどない。自分の価値観を根底から揺さぶられるような、美しい、ときには恐ろしい出会いをする機会はほとんどない。
沈みかけた大きな船の舳先に上っていくのは“死亡フラグ”である。しかし現に起きていることは、経済や企業の不安定さが明らかになればなるほど、我先にしがみつこうとして競争率が上がっていくさまである。
この沈没するクソゲーをクリアするには、そこから小舟を海に浮かべて「脱出」することが必要なのだ。だが、「就職」から降りてしまって「ニート・フリーター」になってしまうことに恐怖を感じる者も多い。必要なのは、正社員にならなくても、幸福に楽しく、不安なく生きていけるような「生き方」の創出である。そのための具体的な試みがあちこちで行われている。われ/われはその成功と失敗の中から、新しい生き方を創り出さなければならない。
社会人になることができなかった学生は、「正社員でなければ人間ではない」というプレッシャーを感じることになる。そのメッセージは法によって明言されているわけでも、どこかが公式見解として発表しているものでもない。親から、親戚から、共同体から、「空気」の圧力として送り込まれてくる。
一般的に、ニートを抱えた親の心持ちは良いものではない。巨額の投資をした子供が不良債権になってしまったようなものだ。親は近所や親戚に対しての存在を隠そうとする。けして触れてはいけない腫れ物の扱いになる。それを察した本人も段々自閉的になり、部屋から出なくなる。そうして日々を生きていく。世間からの評価は「人としての生きがいを感じていない人生」というレッテルを張られることになる。
しかしながら、ニートやフリーターは、「正しい人生」を確認するための、価値の源泉なのである。彼らを否定し、見下すことにより、自己の正当性を確認することができる。だが、その「自尊心」や「自己愛」は完全にニート・フリーターに依存している。ニート・フリーターこそが、「正」の自信・自己愛・正当性を生産しているのだ。
ここにニート・フリーターの蜂起の可能性がある。ニート・フリーターの生を悦ばしき幸福なものに替えることによって、自身が支え、生産している「正」の正当性を破壊することができる。
消費しないこともまた一つのストライキである。「若者の車離れ」などという言葉をあちこちで聞くが、実際に必要のないもの、ステータスシンボルやモデルチェンジによる「記号消費」でしかないものに金を払わないことは、第三次産業が高度化した現在の高度消費社会に対する抵抗である。記号を消費したければ、情報環境でそれこそ記号を消費するほうが効率がよい。
少ない労働、少ない消費でより充実した生を生きること。その生が真に悦ばしいものであることを見せ付けること。それを自分たちの力で実現してしまうこと。それこそが、「正」に対するわれ/われの有効な反逆であり、蜂起である。
シェアハウスやオルタナティヴスペースは、新しいライフスタイル創出のための実験場である。
以前はキャンパスや学生会館などがオルタナティヴスペースとして存在した。個人の表現が雑然と壁に貼られ、漫画や本や各種のサブカル書籍が置かれ、若者たちがたむろし、共に食事し、眠るその雰囲気は、かつての学生会館に酷似している。
大学自治会の解体とともに、文化の発信源としての大学の規制がすすみ、二〇世紀最後の四半世紀にその力は大きく減退した。今や、学生の数はあっても、大学の主体としての学生が根こそぎキャンパスから追放された。大学キャンパスが使えなくなったため、オルタナティヴな価値を求める活動は、「ストリート」に特権的に見出される状況になった。これはアイロニカルな事態であり、大学キャンパスがネオリベ化したため、以前からあったストリートでの活動が焦点化されただけである。対応して、一般の公園初め路上での規制は前世紀から厳正になり続けている。宮下公園のナイキパーク化もその一環である。
つまりこうだ。シェアハウスブームとは、人が市場の価値とは別に集まり、交流し、表現できる場が、大学からストリートへ、ストリートから民家へと後退し押し込められたことによって生じたものだ。その意味で、宮下公園のナイキパーク化とシェアハウスの興隆は鏡の裏表なのだ。
六八年の学生運動では、アメリカにおいてヒッピー文化とサイバー文化の融合があったが、同様に、一〇年代の日本においてもっとも傾注すべきは、ストリートカルチャーとネットカルチャーの交錯した場所と時間に立ち現れるオルタナティヴスペースである。ネットで人々はイベントの日時を知り、リアルの場に人を集める。つまり、ハレの日にイベントで顔を合わせ、ケの日はネットでつながる、といった形で、かつてない形でのオルタナティヴ行動が可能になったのだ。
オルタナティヴスペースやシェアハウスは、生身の身体を持ったまま集まりうる場のひとつである。そこは新たな文化の発信源となっていくが、一方でそこにも適応できない者がいる。
われ/われは、セクハラやレイプやパワハラが、どこのオルタナティヴスペースにおいても存在しているのを見ている。新しい生き方を創出するとはいえ、それは無条件で肯定されるべきものではない。ある人にとっての自由が他者に対する抑圧であり権力となるならば、それは否定してきたものを自身が再生産している。オルタナティヴスペースにおいては、主催にとっての自由が重視される。そのため、外部から来訪する異者との間とのコミュニケーションは、コンフリクトを孕む。そもそも、現在の労働は、コミュニケーション力が絶えず要求されるものであるが、その過酷な労働からオルタナティヴスペースへと逃げ出そうとしても、結局のところ、コミュニケーション能力が低過ぎれば出入り禁止となる。警察権力・国家権力から離脱しようとすることが、警察より恣意的な暴力や公平さのない権力が再生産されるのならば、それは不要である。新しい生き方を創出するならば、そのような反復と再生産を回避しなければならない。
われ/われ自身によって、われ/われは孤立させられることもある。われ/われの身体と精神は、管理され、囲いこまれ、統治されているが、そこから自由になろうとすることがまたしても囲い込みを必要としてしまう。切り離されたわれ/われは、鍵のかかった部屋へと押し込められた。ある人はシェアハウスやオルタナティヴスペースの住民になることができず、恋人もおらず、セクシュアリティにコンプレックスを抱き、自宅の自部屋をオキュパイする。
だが、われ/われは、その分断を可能性に転じ、部屋の中からネットワーク上の身体断片として集結することができる。現在の蜂起は生身の空間(ミート・スペース)と電脳空間(サイバー・スペース)の両方から構成された社会(ソーシャル・スペース)の中において起こる。孤立することを、引きこもることを恐れることなかれ。それでもあなたの断片は、どこかの誰かの断片と知らず知らずに連帯し、そしてどこか予想も付かないところにまで繋がっている。
いま・ここで起こす蜂起は、いま・ここではないどこかに繋がっており、そこで炸裂する。いますぐにそれが見えないとしても、その力は地下に潜り、見えない場所に仕込まれた時限爆弾になる。