名無し委員会

われ/われ、”名無し”の群れは、ここにこうして政治的意見を発表する。その物質的成果は、『別冊情況』「思想理論編」に掲載されるだろう。

いまここにある蜂起 Ⅰ-Ⅱ

(承前) 

 

 

第二の蜂起 労働主義のフィクション/生命資本のプロパガンダ

 

「働くことは良いこと!」「働かなければ生きていけない!」「やりがいのある仕事を見つけよう!」などという言葉が叫ばれる。よく聞く言葉だが、「本当の言葉」ではない。「おはようございます」という言葉はよく聞くが、本当の言葉ではない。この挨拶は、むしろ「本物/偽物」を超えたところにその働きが隠されている。

働くことの「美徳」について、われ/われが自分で言ったり、他人から聞かされたりしている内容を、ここでは「労働主義」と呼ぶ。われ/われはそのような労働主義の言葉に気をつけなければならない。なぜならば、実際には本当でも偽物でもなく、ただ言葉が使われることだけが目的だからだ。この手の言葉は使われれば使われるほど、効力を発揮する実に厄介な代物だ。

 この労働主義のスローガンを裏返してみよう。現状にノーを突きつける、もっとも手軽でもっとも効果的だと思える方法だ。「働いたら負けだと思っている!」と。

しかし、考えてみよう。そもそも労働に勝利も敗北もあるのだろうか。労働主義の言葉が本物/偽物の判別を超えたところで秘密に働くのと同じく、労働を「勝利か敗北か」の二項で考える限り、われ/われは罠に陥っている。

「労働は敗北」という声も、「労働は勝利」という言葉の効果それ自体を弱めることにはならない。それどころか宣言すればするほど「労働は勝利」とする価値観が強化され、よりいっそう浸透していく。われ/われが真に行わなければいけないのはこの二者択一そのものの破壊である。

「仕事は大変なものだ!」「人がやりたがらないことをやるから給料が得られるのだ!」 との声が聞こえる。しかしもうわれ/われは惑わされない。ある意味で、われ/われはすでに敗北している。勝者などいない。周囲を見渡してみればよい。「勝ち組」などと羨望とやっかみの入り混じった視線の対象となる人々を。彼ら彼女らもまた、働くことを楽しむのではなく、楽しく働こうとしているだけだ。心の奥底で、彼ら彼女らはつねにおびえている。労働主義の権化たる自分たちが、いつのまにか勝者から敗者へと手の平を返したかのように、転落するのではないかと。

「誰にも平等にチャンスはある!」「結果を出せないのは、努力不足だ!」「結果を出せない努力は努力じゃない!」。労働主義は、機会の平等と自己責任の言葉と一緒になりわれ/われを追い詰める。ちまたにあふれる自称「成功者」たちのハウツー/自己啓発本は、それが「成功者」によって書かれている以上、何も語っていない。それは「正しい/間違っている」を超えている。「成功者」が語るものが、すなわち成功であるのだから。われ/われの敵は、この同語反復の中に潜んでいる。

「よい中学に入れないと、よい高校にいけない!」「よい高校に入れないと、よい大学にいけない!」「よい大学に入れないと、よい会社に入れない!」「よい会社に入れないと、よい人生を送れない!」。「学歴社会」は終わった、これからは学歴ではなくて「人間力」だ、「コミュニケーション力」だなどと、無限に反復される「力」。われ/われは、何らかのモノサシで自身を測りつづける強迫観念に囚われている。それがどんな力であれ、われ/われを断片化し、勝手にメモリをふる。

学歴社会は、終わったどころかこれから始まる。学歴社会は崩壊したという言辞を、「学力」では「本当」のものが測れない(つまり「偽物」だということ)、「人間力」こそが「本物」だとする態度だと考えてみれば分かる。「本物/偽物」という区分の無意味さと、この区分にこだわるということ自体が、この区分の影響力を増す逆説的な事態を破壊すべきだ。

 「勝利/敗北」という図式しか通用しない学校は、われ/われを絶えず二者択一へと強要する。学校で教員が発する「さもないと」は強力な呪縛となり、われ/われがまだ小さい頃から、行動・思考に枠をはめる。

 われ/われは自分のうちから沸いてくる可能性という泉を十全に汲み取る権利をもって生まれてきたはずだ。われ/われは、自分たちの体と心のなすがままに、生きる権利をもって生まれてきたはずだ。われ/われは、われ/われの許可なく課せられた枠を、破壊することができる。われ/われはくだらないモノサシをたたき割り、石として投げることができるはずだ。

 われ/われはこの社会でサヴァイヴするために労働するのだと考えているが、現実はそうではない。このような何かの「ために」という発想こそが、労働主義のフィクションの源泉となっている。それが何であったとしても労働が何かのための労働である限り、われ/われは労働主義のフィクションから解き放たれない。

 息を吸い、水を飲み、食事し、排泄し、泣き笑い、友と語り合う。これこそが、われ/われにとっての労働である。生きるということは、それ自体が労働である。こう考えることは、日常の労働化ではない。労働を日常によってキャンセルするのだ。

SF映画『マトリックス』を思い浮かべてもらいたい。そこで描かれる未来人類は、人間電池として機械生命に生かされていた。これは一種のディストピアだ。しかし同時に、われ/われに一つのヒントを与えてくれる。機械生命にとってわれ/われの生存=労働は搾取の対象となる。それぐらいに、われ/われは「生きているだけ」で労働している。ますます管理社会化が進むこの社会において、生存というわれ/われのもっとも基礎的にして重要なものを賭け金として差し出すことは、十分にリスクがある。

だが、ただ生きているだけで労働であり、その「生存」から搾り取る何かが「社会」を動かすために必要なのであれば、それを掛け金にして勝負することは可能である。

 

 

今ではもはや、資本は生命そのものを再生産させることもない。「生かさず殺さず」ではなく、生命そのものが直接資本に変えられていく。労働や資本は、もはや人間のためにあるものではない。誰のためかも何のためかも分からないところで自走している。

われ/われの内面や精神をなにかが喰おうとしていることは、本屋に氾濫するビジネス本、スピリチュアル本、自己啓発本を見れば明らかである。社会を変えられないなら、自分が変われ、自分を変えろ! そして、働け!

現代のプロパガンダは、そのメッセージを直接発するような粗雑な真似はしない。一見それと逆のことを言いながらあるメッセージを伝える。たとえば日本の「閉塞感」を憂える言葉は心配しているようで、逆に「閉塞感」を作り出す。

それだけではない、現在の広告は、自ら広告を行うように主体をコントロールする。本当は当事者は楽しくもないのに「こういう生活をして楽しんでいるわたし」を演出して他人の羨望を誘うように主体を作り変える。「いまここ」ではなく、他者の期待や羨望に依存した快楽しかそこにはない。イメージの作り出す記号の中に自分が入り込んでしまったことに悦びを感じるようにさせ、さらにそれに感染させるような「広告」主体に自らを変えていく広告。それが現代のプロパガンダだ。

だが、このプロパガンダは結局のところ、逆説に遭遇する。「自ら広告を行う」ように訓練された主体が増えれば、望まれないプロパガンダもまた増殖し、信じがたいスピードで伝達される可能性が存在しうる。問題は、どちらのスピードが速いかだ。

 

 

 イメージと〈生命資本〉とがどんな関係にあるのか、具体的にひとつの例を見よう。ここで語っているの“わたし“は、われ/われの断片の集合である。

“わたし“は十七才の時、モデル事務所にスカウトされた。大学に入ってから、渋谷区のモデル事務所に所属して、ファッション雑誌の読者モデルやイベントコンパニオンを学生生活の片手間にやりはじめた。ファッション系や芸能に属していると、そこでの格差と差別や闇なんか業界にいない学生は分からないから、大学ではちやほやされて、一般の学生とは違う道を歩いているというという強い自意識が生まれる。

物心がついた時から、マスメディアでアイドルやファッション誌が憧れの対象として意識に潜り込んでいた。その無意識にすりこまれた 「憧れ」は、脳裏に日々浸食されていく。

モデル事務所の中で「意識の高い」モデルやイベコンに横行していたのは、覚せい剤、タイから個人輸入する通称「死の薬」、痛み止めの大量摂取(OD)、食べ吐き、肌荒れを治すためのステロイド、繰り返される美容整形、美容整形代や薬代や吐くための大量の食べ物を買うためのお金を稼ぐための売春などなどだった。

すべてが死に向かう悲しく醜い行為だった。若さを失い、健康を失った「非正規雇用」のモデルたちは誰にも救済されない。誰も責任をとらない。「自分で夢を見て、望んで入ったんでしょ?」と、原因は自分に帰属される。もっとかわいかったら、もっと痩せていたら……と自分が成功できない理由は無限に創られていく。

「夢を見ろ」と無責任に言う全ての者たちよ、直視せよ。ここが夢の果て。ここには、夢の墓があり、生々しい屍骸が一面に敷き詰められている。

ある女の子は、十分細身なのに、あと七キロ痩やせないとデビューさせられないと、有名雑誌の専属モデルたちの前で叱咤された。先輩たちはくすくす笑っていた。小さな時から可愛いねと言われ慣れてきたのにどうしてこんな目に合わないとならないのか分からなかった。痩せろ、整形しろ、枕営業ぐらいしろという圧力は日常で繰り返され続け、それが業界だから、と夢のセカイの無知を諭され、そうするしかないと女の子たちは皆がんばるようになる。

ある女の子は、楽屋でお弁当を全部食べたら先輩に「胃が素人じゃん」と嫌味を言われた。その台詞を言った先輩は、二年半前に、マネージャーに7キロ痩せろって言われて、血の滲むような努力をして十キロ痩たけれど、一流のモデルにはなれず、オーディションをうけては落ち続けていた。

言われた女の子は、戸惑って、やはり他の子たち同様業界というセカイの内側に入るように頑張ったのだけれども、どう訓練しても、若いからお腹が空くし、頑張って五日絶食しても、次の日からいっぱいご飯を食べてしまうからリバウンドして、さらに太ったり、肌荒れしたり、悪循環で精神が壊れていった。お約束のように食欲が湧かないようになる薬に手を出した。そうしたら食欲は落ち着いたみたいで激痩せしていった。

女の子は、大学にも通っていなかったし、真面目だったから、時折営業をして仕事をもらって嘲笑されたり、オーディションを複数受けてコンパニオンを不定期でやったり、ネットで多少ちやほやされたり、カメコと呼ばれるパンチラを隠し撮りするファンがちょっとついたりした。男性に復讐するみたいに何故かホストクラブに通い、銀座を拠点にしてる会員制の高級売春をやるようになった。その斡旋をしたのは、モデルやイベントコンパニオンが多数通うメンタルクリニックの医者だった。

その医者は、「ナチュラル」「安全」と言って、大量のエフェドリンが含まれている漢方を処方した。エフェドリンは覚醒剤取締法適用対象である。

一流モデルにもなれない売れない芸能人であり、いろいろなことに手を染めてしまった彼女に唯一あるのは、ネット上での承認欲求の満足と数人のカメコがスト―キングしてくることぐらいだった。

「どうして、上がれないのかなぁ、何が売れてるひと達とはうのかな、鼻をもう一度いじったら綺麗になれる? なにが違う? あたし痩せたよ? がんばってるよ?」とカロリーの低いワインを飲みながら、美しくネイルアートが施された指先に、その女の子の涙がぽろぽろおちた。そして、彼女は四年後に死んだ。享年二四歳。死因は心不全だった。薬の飲みすぎにより、内臓がボロボロだったらしい。

ただ華やかな場所にいきたかった、子供の時に見たアイドルや女優みたいになりたかった、最初は皆ただそれだけだったのに……。

 あのセカイが欲望をくみ取る資本主義が生みだしたただの幻想や偶像で、ただそこにゆくのは食い物にされるあのセカイはいんちきで凄惨極まりない。今でもわれ/われは、あのセカイがかっこいいと脳裏に焼き付けさせ続けている。そして加担者にも被害者にもなっている。

われ/われは、人間の「美しさ」「美容」をマスメディアや資本や広告代理店に規定され、搾取されることを防ぐ手段をみつけ、人間の美しさ、あるいは、それ自体の概念も自らの手で変えてしまうべきである。その幻想を、彼女たちが食べて吐いたゲロが大量に残っているあのごみ箱に捨ててしまうべきだ。

 お前は身体や精神や命の搾取の加担者だと指をさせ。「人殺し!」と叫べ。たくさんのわれ/われになれなかった彼女たちや彼たちを殺したと。

無意識に入ってくるイメージ戦略に乗せられて、巨大資本や資本の手先や大手代理店の手のひらで踊らされるな、殺されるな、死のスパイラルに入るな。

 言葉とイメージを奪還すること。それは命がけの戦争なのだ。犠牲者と認識されることもない犠牲者の屍の上に旗を掲げ、そして奪還しよう。「言葉」を「イメージ」を「政治」を。現代の戦争は武器や暴力を通じて行われているのではない。洗練されたソフトな暴力が、空気や言葉やイメージを通じて瀰漫している。それらの暴力と、いますぐに闘う事が必要なのだ。

あたかもカッコいい職業を作り出している資本家と代理店とメディアと、インチキを言いふらしている連中全員を軽蔑し、それにのせられている人間に「憧れの偶像がいるセカイ」なんて汚れた商業のために作られたものだと叫び、自らの手法で踊れ。そして生きろ。でっちあげの規定された美しいセカイなどに入らなくともよいし、美しい、可愛い、カッコいい、など日常を浸食する言葉を疑い、安易に従うことをせず、ともかく殺されないように、殺しに加担しないように、どんなことがあっても生きろ

 

 

 

第三の蜂起 インスタレーション・オブ・デモンストレーション

 

東日本大震災以降、全国各地で大規模な大衆デモが行われている。

デモに何か意味があるのかと批判することもまた蜂起である。批判に何か意味があると思っているのなら、デモにも意味がある。ただ言いたくて言っているのなら、デモをやる人の動機を批判できはしない。

蜂起とは表現である。我慢できなくなったことの表現である。それは、具体的な解決策を見出す「革命」とは違う。とにかく、身体的・感情的に表現すること、そして突きつけること、それこそが、「革命」以前に必要な「蜂起」の作業である。ある目的を押し付けられて起こすものではない。それ以前に、自ら、なにを求め、なにに不快なのかを言語化する以前の表現こそが「蜂起」である。「蜂起」の求める内容を十全に組まない「革命」や「ソリューション」など無意味である。

原発がなければ経済的な問題が起こる、病院が困る、などの言説がある。それはおそらく真実であろう。しかし、それが真実であるからこそ、蜂起が起こるなぜなら、原発など欲しくない、福島を返せ、健康を返せという叫びと、その現実的な生活者としての電気が必要であるという思いが衝突し、分裂させられるからだ。

解きほぐし難い両義性に追い詰められた精神・身体は、何がしかの叫びを欲する。たとえそれが「無理」だと分かっていても、原発があるおかげで安価な生活ができると分かっていても、ロスジェネ世代以降には貧困や経済の面で「原発があった方がいいと」と理性では分かっていても、それでも原発はいやだという衝動が生じたとき、そのパラドックスを乗り越えるために「表現」はなされる。そのひとつの形がデモである。それに対する揶揄や批判もまた同じ「表現」でしかない。

「遊び」と「真剣」を、「お祭り」と「政治」を対立的に語るのは、間違った先入観である。その分割こそが、政治があなたに思い込ませてきた擬似的な分割である。「政治」の「政」が「まつりごと」を意味する、というのは今更繰り返すまでもない。遊戯的で祝祭的だから真剣ではないという二分法は虚偽である。

デモは「意味がない」とか「効果がない」などの声がある。しかし、そのような「有用性」でデモは判断されるべきなのか。その祝祭的な現場にあるのは、「有用性」や「合理性」という、「政治」の基本とされているようなものや、それが象徴する原発への反抗なのである。

「遊戯」「祝祭性」「非暴力」などと、「政治ではない」として排除されてきた「政治的なもの」が回帰し、復讐しているのである。その象徴が、主婦と、子供である。「おんなこども」という政治から排除された主体こそが回帰し、そして非暴力的で洗練され、ファッショナブルで整然としたデモが起きた。それをマスメディアは好意的に報じ、参加者は増え、警察も映像を気にしてあまり非道なことはしなくなった。

ジャスミン革命を契機にシリアで起こっている内戦は、軍事・独裁政権に対する民主化を求める小さなデモから起こった。軍隊が彼らに発砲し、デモ隊に空爆さえするような状態で民間人が叛乱軍を組織し、戦闘が続いている。

民主化以降の先進国で起こっているデモは、これらとは違う。旧来的な武装蜂起とは異なる「蜂起」をわれ/われはイメージしなくてはならない。今起こっていることは未曾有の事態であり、それを認識する枠組みも言葉もまだないのだ。ときにその蜂起は遊びに見えるかもしれないし、楽しんでいるだけに見えるかもしれない。しかし、われ/われはそこに蜂起を見出す。それが新しい蜂起であることを確信している。それは旧来の蜂起に対する蜂起ですらある。

 

 

《紫陽花革命》と呼ばれる、二〇一二年六月二九日の首相官邸前デモで顕著だったのは、その表現形態の多様性である。タクシーの看板のように、原子力のマークをあしらった「ENOUGH」という文字を車の上に載せたり、美術家・奈良美智の絵を掲げたりipadに表示しているのを多く見かけた。デモはリアルタイムでustreamで実況中継される。ムンクが原発のマークになって叫んでいる旗があるかと思えば、小さな子供が「みなとく」と書いた黄色いランドセルを背負って反原発を主張する。猫耳をつけた小さい子供もいれば、パンク風の男がシャツに「No NUKE」と赤で走り書きしている。その横には、お坊さんがお経を読みながら歩いている。それらが渾然一体となって、音楽と化し、シュプレヒコールと化す。そこにはダンスがある。そして、多種多様な人間が多種多様な主張を掲げながら、様々な「表現」をしている。まさしくこれは「デモンストレーション」すなわち表現であり、そこにはたくさんの工夫があった。

旧来の「政治」が排除してきたものが、ここにはある。音楽、芸術、ユーモア、サブカルチャー、インターネット、女性、子供……。それらを、政治の中に突入させることこそ、このデモンストレーションの、「原発再稼動」という目的を超えた意義そのものである。

それは「有用性の限界」を迎えた民衆の「呪われた部分」であるが、その「呪われた部分」が既に限界に達していること、まさにそのことを表現している。

蜂起」は、必ずしも街頭運動の形をとるとは限らず、身体症状や精神症状、それから文化・芸術などに現れる場合もある。フィクションや芸術作品の重要性はそこにある。それは蜂起の徴候などではない、それ自体が実質的に蜂起なのである。

 われ/われはロジェ・カイヨワとともにこう言おう。妖精物語や幻想小説、それからSFなどのフィクションの中で起こる「奇跡はみな、文明がそのさまざまな発展段階で、常に変わらず欲求の対象としてとり残してきたものの模写であり、陰画であり、空の鋳型のようなものである」のだと。

 フィクションのなかには、時代の政治が回収できず、充たすことのできなかった欲求がある。フィクションの中で充たそうとしているもの、静めようとしているものが何なのかを見ることで、逆説的に、新しい時代の欲求が見出される。それこそが旧来の政治が取りこぼしてきたものであり、それによって復讐されているものである。であるから、この表現という名の蜂起の中にある「欲求」に真に対処すべき政治こそが必要なのだ。

地上の電柱の電線は見える。けれど、地下に埋められた巨大なネットワーク・インフラは一般人の網膜に映らない。脳に反映されない、故にマスコミや国や資本が作り出す身体とメンタリティーはどんどん繁栄する。

この立っている大地をピンク色の線に換えて、君はピンク色の線をすり抜けて地下に今発つ。世界は逆転する、そう、地下に潜ることによって君は自分を設計するセカイを眺める。資本と権力のネットワーク、配線がまだ掘り出されていない古墳の上にあまりにも窮屈に、日々パキパキと完璧に見えないように地下に作られている。

権力とインフラが地下に埋もれて見えないように、蜂起するものたちのネットワークも、潜勢力も、地下に潜っていて、見えはしない。それは不可視のネットワークだ。フェイスブックtwitterの話をしているのではない。それは全て監視されている。インターネット上の「ソーシャル」は、資本が一度壊した「社会」や「共同体」をまた販売するためのマッチポンプであり、思想内容や連絡を監視・管理する便利な装置だ。

 

 

東日本大震災後、福島第一原発がぶっ壊れた後、唐突にミュージシャンの斎藤和義が「ぼくたちは騙されていた」と歌い、一躍売れっ子になった。SMAPに震災後楽曲提供までして国民的スターになった。しかし、東日本大震災以前の斎藤和義はリクルート社の『ゼクシィ』でテレビCM曲「ウエディング・ソング」なども発表していた。

リクルート社は、「フリーター」という言葉をカッコいいものとして流行させた。確かに、当時フリーターはカッコよかった。自由を感じさせた。しかし、ゼロ年代には雇用の流動化と格差化を拡大させたと批判されるようになった。

 そのようなフリーター幻想と、一九九五年に日経連が「新時代の『日本的経営』」を提出したことは大きく関係している。「新時代の『日本的経営』」に書いてあるのは、要するにこういうことだ。知識やコミュニケーション能力のあるエリートだけを正社員にして、その他は経費削減のために非正規にしましょうよ、そのためには福祉なり一生面倒見るなりスキルを身につけるための経費を会社が負担するのはやめてしまいましょう、そうすれば経費が掛からないから。そんなことが書いてある。要するに、「頭のいい使えるやつ」と「使い捨て」に分けたのだ。

使い捨て=非正規=フリーターはかつては望まれたが、ゼロ年代には恐怖と悲惨の象徴になった。だから、「正社員」になりたいという幻想を生んだ。そしてまたその幻想が食い物にされる。今や「正社員」すら「使い捨て」である。であるならば、再びフリーターの自由さの価値を取り戻し、自分たちの努力でその生活の質を上げ、悲惨さをなくすほうが良いのではないのか? 

「夢を追え」という号令や「個性化教育」、それからクリエイター志向を賞賛するような社会的な言説もこの頃から増えた。そしてその結果、誰もに才能があるわけではないから、多くは、夢破れ、フリーターになる。あるいは同人誌を作るか、pixivなどに投稿する。一億総表現者であり、この世の全てはアートであり、ネットに書き込むだけで表現をしており、2ちゃんねるに書き込むことはテロルである……。

あなたはこの号令の被害者だ。Twitterにもfacebookにもmixiにも、アメブロにも魔法のIランドにも、モバゲーにも前略プロフにも「表現者」が溢れかえっている。芸術家だらけだ。

しかし、世間は残酷だ。評価は優れたものにしか与えられない。少数の特権的才能だけが評価される。「だったら自前で評価を調達してやろう」と思う気持ちも分かる。しかし、その承認欲求こそが、また食い物にされる。

自前で評価を創造しあって承認欲求を充たすこと、それ自体は必然として生まれている。だが、外部との価値観とぶつかったときに、気をつけたほうがいい。他者や世界は、価値観を共有してくれない。とはいえ、その居心地のよさを自前で調達すること自体は、悪いことではない。

 表現に群がり、行き場を失った若者の間でシェアハウスが作られる。新興宗教のように、精神の不安と高揚感を商品にした新しい経済体制が生まれている。どちらも、非正規雇用と同じように、あなたの未来や老後は保証できるものではない。不安定な自分たちに対する相互扶助を自前で行い、経済的・精神的な互助を行おうということ自体は、必然であり、合理的なことであり、美しいことである。いくつかの落とし穴にさえ陥らなければ、それは社会構造に対する蜂起の一粒として評価されるべきであろう

 ただし、同時に君たちは自分が新自由主義イデオロギーの犠牲者であることを自覚しなくてはいけない。君たちが誇る「シェア」や「自助」あるいは「ノマド」は、新自由主義者が君たちを不安定にさせ、夢を追わせると同時に、国家や企業が労働者に金を支払わないために振りまいたイデオロギーだ。いわく「自己責任」、いわく、国や企業に頼らない「福祉」。君達は、見事に新自由主義の落とし子だ。福祉予算を削減し、民間が互助的な福祉を行うことを求める新自由主義がまさに必要としているものが君たちだ。君たちの存在は新自由主義を補完する。

資本とは「関係性」であり、生産するのは「状況」であるという新しい経済体制に適合し、「関係性」を価値の源泉にして、「状況」や「現象」を生産物とする君たちの「アート活動」は、関係性やソーシャルを根こそぎにし、そしてライフスタイルや状況を販売するようになった新しい資本主義の商品生産様式にとてもよく似ている。

だが、そのような新自由主義の補完物であること、〈生命資本〉である「新自由主義」に知らず知らず「生き方」まで規定され、「反逆」を「生産」させられすらしていたと知った時、新たな社会のあり方を示す蜂起の主体へ加速していくことができるはずだ。

 自分自身の個性を表現しているはずが、資本の生産物と、表現者の生産物が似ていく。 一部のアートは、特に「地域アート」や「参加型」のアートは、明確に地方自治体などの要請のもとに作品を作っている。「現象」や「状況」や「参加」を生産することがアートであると、価値観や定義が変容しようとしている。

 だとすれば、それはデモが最も成功したアートであるということである。地方自治体などの要求することと、資本の要求すること、そしてそれが生み出した新しい表現の形態が、今度は国会議事堂や首相官邸を取り囲む。これは新たな皮肉でもなんでもない。自業自得ですらない。このパラドックスに至ること、そしてそのパラドックスから生まれる生産性こそが、世界を新たな次元に切り拓く力なのである。真の芸術とは、その力と同質の力を持ちながら、それに拮抗するほどの新次元を認識や感性に起こせるものである。そのような力を、各々が独自の領域で最大限に発揮させること。このような蜂起の力をこそ、政治の現場に再び降臨させなければならない。

 ストリートのアーティストたちよ! ホワイトキューブの制度の中にいるアーティストたちよ! いや、アーティストでもなんでもない、ただのその辺人々よ! いま・ここにおいては、その区別はない! 個人の才能の差、実績の差、能力の差を超えて、ひとつの集合体としての未知の何かこそが、ここで「表現」されているものなのだ