名無し委員会

われ/われ、”名無し”の群れは、ここにこうして政治的意見を発表する。その物質的成果は、『別冊情況』「思想理論編」に掲載されるだろう。

ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論

 (本稿は、『別冊情況 思想理論篇』第二号に掲載されたものである)

 

 

 

 

ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀

 

                            藤田直哉

 

  

 

ゼロ年代批評の政治旋回!?

『思想地図β』vol.3(二〇一二)、特集「日本2.0」の巻頭言で、東浩紀は政治旋回宣言を行った。

 

日本はどうあるべきか。考えてみれば、ぼくたちは長いあいだ、その素朴な問いをこそ忘れてきた。停滞する政治を尻目に、消費社会のまどろみのなか、それがまどろみにすぎないことを知りながら、現実との直面を先送りにしてきた。(p44)。

 

 ぼくたちは長いあいだ、自分たちがなにものか、その問いへの直面を(原発の問題への直面を、沖縄の問題への直面を、世代間格差の問題への直面を)避けることこそが幸せの条件であり、成熟の条件であり、ひいては「正義」の条件ですらあると教えられてきた。(同)

 

 ゼロ年代を代表し、オタク・カルチャーを牽引し、ポストモダンを肯定していた東浩紀という人物が本当に発したのかと疑うぐらい、単純かつナイーブな「政治旋回」である。これが稚拙なのか、あるいは稚拙かつ単純な言説を求める読者の心性を計算して稚拙に振舞っているだけなのか、判別はできないし、する必要もない。そのようなアイロニーの多重性の罠に迷い込み、時間を空費することよりかは、この文章そのものを素朴に読み、素朴に問うことの方が重要だからである。

 この文章にはいくつもの違和感、あるいは問題点を指摘できる。

一つには、東日本大震災を契機に転回した「政治」がこのような稚拙なもの――原発、沖縄、格差のようなステレオタイプなものであることである。その「政治」観が貧しく、紋切り型なのは意図的なパロディなのだろうか? 「脱・政治化」したオタクはそのことによって政治的だ、という論調を貫いてきた東の言葉とは思えないぐらい、政治が薄っぺらだ。できの悪いパロディではないかと疑いたくなるぐらい、薄っぺらである。

二つめは、「ぼくたち」を巡る問題である。ここで書かれている「ぼくたち」とはいったい誰のことを指しているのだろうか? 東浩紀自身と、東浩紀の想定するオタクたちだけを指しているのではないだろうか。それ以外に、そのような「正義」を教えられた「ぼくたち」に該当する人々の集団が思いつくだろうか?

 そして三つめの重大な問題は、「現実」という言葉の単純さである。「現実」という言葉が、あまりに単純に「消費社会のまどろみ」と二項対立にさせられている。ジャック・デリダ論でデビューし、『動物化するポストモダン』というタイトルが示すとおり、ポストモダニストであったはずの東浩紀が、一体どうしたことか。このような単純な二項対立こそが、ポストモダニストが否定しようとしたものそのものではないのだろうか。これは、東がポストモダニストを辞めたのか、あるいはポストモダニストであるまま戦略的な言葉を用いているのか、どちらなのであろうか。

 もしポストモダニストを辞めたのであれば、この「旋回」は、単なる東浩紀の思想の敗北である。それならそれで、それだけのことである。戦略であるとするならば、東日本大震災後に現れた単純な二項対立を求める大衆的な欲望に対し、「二項対立批判」を行うという立場は採らないとしたのか、あるいはそれに応じているように見せかけながら解体しようとしているかのどちらかである。だが、この二重性、多重性の罠にお付き合いするほどの親切さを読者が持つ必要はないだろう。今必要なのは、上記の文章に直面し、素朴に問いを発することである。東浩紀はなぜ政治旋回において、幼稚な政治観を提出し、狭隘な「ぼくたち」の枠を提出し、「現実」を巡る安易きわまる二項対立思考に陥ってしまったのだろうか。

東浩紀は、ゼロ年代の日本において、「批評」の代名詞のようにすら若い読者に思われた人物であった。彼の論じるオタク論、文化論は、社会論としても消費され、影響を後続の世代に与えた。「批評」と言えば、社会批評や文芸批評よりも、オタク・カルチャーの批評のことが真っ先に頭に浮かぶような世代を丸ごと作り出した人物と言ってもいいだろう。

今ここで東浩紀の政治旋回を批評の俎上に挙げるだけでなく、彼の理論と、それを取り巻いていた「ゼロ年代批評」それ自体を対象化する必要がある。なぜなら、彼の思想や理論の内容が影響を与えているのみならず、「ゼロ年代批評」は後続の世代に「批評とは何か」を巡る考え方のほうでこそ影響を及ぼしているからである。これから本当に必要な新しい思想を生み出すためには、東浩紀とそれを取り巻いていた「ゼロ年代批評」的言説空間に無自覚に浸っていてはいけない。それを対象化した上で、思考を、批評を、更新していかなければならないのだ。

そのために、本論では彼の主著である『動物化するポストモダン』(二〇〇一)を読み直し、「データベース理論」の検討を行い、「日本2.0」巻頭言との比較を行う。それによって、ゼロ年代という言説空間が一体何であって、これから何になろうとしているのか、その一端を明らかにすることができるはずである。

 東浩紀自身が現実や社会、政治に眼を向けるようになり、オタクたち=「ぼくたち」に向けて、「まどろみ」から醒めるべきだと主張したことを評価する人々もいるかもしれない。だが、脱・政治化したオタクたちが、そのような主体のままで幸福に生きられるような社会を目指す思想家であると自ら語っていたゼロ年代東浩紀は、それを信じた読者に対して大きな裏切り行為を行っている。この「旋回」は、ゼロ年代における彼の業績の、思想的な正当性を大きく失わせるものですらある。

 

 

動物化するポストモダン』と「データベース理論」

このような問いかけの視線を持ちながら、二〇〇一年に刊行された彼の主著『動物化するポストモダン』を再読してみる必要がある。先んじて答を言ってしまえば、ここに露呈した問題は、既に『動物化するポストモダン』に孕まれていたからである。

彼は、九〇年代以降に誕生した新しいオタクたちに、「日本」を意識しなくてもよい主体、さらには敗戦トラウマとアメリカという「政治」を意識しないですむようになった新しい主体を見出している。

 

したがってオタク文化と「日本」の関係は、集団心理的に大きく二つの方向に引き裂かれてきたと言うことができる。オタク系文化の存在は、一方で、敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデンティティの脆弱さを見せつけるおぞましいものである。というのも、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しかしその存在は、他方で、八〇年代のナルシズムと結びつき、世界の先端に立つ日本という幻想を与えてくれるフェティッシュでもある。というのも、オタクたちが生み出した擬似日本的な独特の想像力は、アメリカ産の材料で出発しつつ、いまやその影響を意識しないですむ独立した文化にまで成長したからだ。(p32)

 

 このようなオタクの行っている行動として、東は「データベース消費」という概念を提出した。活字を読んだりする旧来の人間は、言葉の背景に現実があると思ったり、言葉が現実を指したりすると暗黙的な仮定をもっていた。「データベース消費」を行っているオタクたちはそうではなく、「現実」からは自由に、「データベース」のストックから自在に引用して言葉を作ったり文化を消費している。これが「データベース理論」の要旨である。

 このような「データベース消費」こそが、新しい主体として発見された九〇年代以降のオタクの特徴である。では、それ以前のオタクはどうであったのか。

「オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが有意だと言い募る欲望に支えられて登場している。それは明らかに、ラジオや自動車やカメラの小型化への情熱と同じく、高度成長期の国家的な欲望を反映している」。「オタク系文化の『日本的』な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、そのような連続性を壊滅させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい」(p23)。東はこう指摘したうえで、次のようにいっている。

 

 

  オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび擬似日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ。(p24)

 

 言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。〔強調引用者 以下同様〕 (p25)

 

 

このように起源における敗戦トラウマを東は挙げる。さらに、七〇年代以降については大塚英志の分析を参照し、賛同する。近代国家で社会をまとめあげてきた理念などの「大きな物語」が機能不全を起こしてしまった。「日本ではその弱体化は、高度経済成長と『政治の季節』が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速化した」(p44)。かくして、「大きな物語」の失調の結果、オタクたちの振る舞いは、サブカルチャーによって自我の核を作り上げなければいけなくなる。「神」や「社会」すら「ジャンクなサブカルチャーで捏造するしかなくなる」。大塚によれば、かくして、異界や外部などの超越的なものが消滅する社会状況を反映するように、そのようなものを求める心性がアニメなどの中に「異界」や「外部」を作り出す。そしてそのような虚構的な神話の中に自身を位置づけようとする。これが大塚の分析するオタクである。

東はそれに賛同しながらも、九〇年代以降のポストモダン化したオタクは、そこからも自由になっていると指摘する。全体を見渡す視点を「サブカルチャーとしてすら捏造する必要がない」新しい世代、それこそが「データベース消費」をするオタクである。ネコミミやメイドなどの属性だけで「萌え」ることができるこのオタクたちは、もはや物語すら必要なく、断片だけを消費している「データベース動物」である。それは、だからこそ、「現実」に捉われることのない自由な主体なのだ。

 東はそのようなオタクたちを、ジル・ドゥルーズリゾームモデルを使って説明を試みる。一点に支えられて存在していた「近代的主体」に対し、神も(強い意味での)自我も神話も必要なく、断片を組み合わせて戯れることで生きられる人々は、リゾームのようであると。

確かに、東の言ったような主体が生まれ、歴史や政治の重力からも自由になった文化と、それを享受する主体が新しく生まれてくるのだとすると、過去の重みや悲劇からくるシニシズムを乗り越えた、別種の未来が期待しうるだろう。歴史性や政治性を失うことの危険と天秤にかけたとしても、狭義の政治が齎した無力感・シニシズムを超えるための戦略として、この概念には魅力があるように見えたことは否めない。

それこそが、その可能性の追求こそが、東浩紀の魅力の核心であった。だが、政治旋回の文章は、その可能性の追求を自ら放棄してしまっている。だとすれば結局のところ、九〇年代オタクに見出した「断絶」や「自由」こそが、錯覚であり、あるいは希望的観測に過ぎなかったのではないか。

では、東浩紀自身が「政治旋回」によって否定してしまった、政治や経済、日本などの重力から自由な主体とは、なんだったのだろうか。そしてそれを説明するための理論であった「データベース理論」とは、なんだったのだろうか。本人が今さらまったくの間違いだったと反省するような言説が、かつては、一時代を築くような批評の潮流になってしまった、そのような空虚な時代であったのだろうか?

もちろん、空虚な時代だったのだ。

東浩紀の思想は、思想的な正しさや理論の整合性ではなく、彼の思想が「消費されていくこと」により正当化されるものであった。内容ではなく「売り上げ」こそが思想を正当化するという言説空間こそが、ゼロ年代批評の空間であった。東浩紀の思想は、オタクたちの自己肯定として利用され、コンテンツ制作者たちにとっては、便利な「箔付け」と宣伝として利用できるものであった。そのような中で、東浩紀の思想は生きてきた。

だから、オタク・カルチャーに不況の影が差した途端、慌ててその思想や理論を投げ捨てざるをえない。その程度の射程しか持っていない理論であり、思想なのだ。

 

 

虚構が続く限り――ゼロ年代批評市場の延命構造

 東浩紀に代表されるゼロ年代批評がこのように蔓延した背景には何があったのだろうか?

 先んじて結論を言えば、批評それ自体が「虚構」を継続させる役割を果たすことになったという、批評を巡る市場の構造変動が起こったということである。

東浩紀は、九五年以降に「例外的」に「浮遊感」が続いている日本の萌えカルチャーに「ポストモダン」を見出す。バブルが終わっていないかのように思い込める「浮遊感」をこそ、東浩紀は九〇年代以降のオタク・カルチャーの重要な特質と認め、それを「虚構」と呼んだ。

石黒昇原作・監督のアニメ作品『メガゾーン23』(一九八五)に触れ、宇宙船内に作り上げられた仮想現実が八〇年代の東京であり、その理由が「その時代が人々にとって一番平和な時代だった」という箇所を引き、東はこう述べる。

「当時の東京に生きる多くの若者たちの共通感覚を伝えていたに違いない」「八〇年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりでは生きやすいものだった」。「阪神・淡路大震災オウム真理教事件、援助交際や学級崩壊が相次いで話題となった九〇年代にはほとんど消滅してしまった。ところがオタク系文化の周辺においては、その幻想が例外的に生き続けてきたように思われる」(p31)。

 八〇年代の東京の浮遊感は「虚構が続くかぎり」肯定できるものであった。そして九五年に日本は閉塞感に満たされ、その浮遊感は終わったが、オタク文化の中に例外的にその「浮遊感」があるとし、そこに「ポストモダン」的なものを見出そうとしている。その結果、延命させようとしているものは、「虚構」であり、「浮遊感」である。

そう確認した上で「データベース消費」が起きているとし、「浮遊感」が継続しているとして、東が解釈を行ったジャンルそのものに注意をしてみたい。

九五年にはウィンドウズ95が発売され、パソコンブームが起こり、そのあとにはネットバブルが起こっているという点である。半導体は指数関数的に性能をあげ、コンピュータは手軽で安価で強力になっていき、インターネットが急速に発展した。この過程自体が、そもそも強い経済的・技術的な高揚感を持ったプロセスであり、ユーフォリア的なものであった。美少女ゲームも、ネットを通じた二次創作も、WEBそのものも、その中にある文化なのであるから、コンピュータ市場の発展やネットバブルなどがもたらした「浮遊感」「高揚感」そのものだけで、ポストモダン理論を持ち出す必要などは全くなく「浮遊感」の説明をつけることは可能なのだ。

 一部の業界人、特に、現場のアニメ制作者らから東浩紀を嫌う言説が多く発せられるのも、単純に言えばこういうことである。産業として立派に発展しているところに勝手に来て、「ポストモダン」を見出して解釈していき、誤解を広める人間であるというのが、その批判の要点である(「焼畑商法」という揶揄がよくなされる)。

 この批判にも、頷けるところはある。だが、同時に、批評や思想の延命、もしくは新しい展開という観点から見るのなら、彼が新しい評論のジャンルを開拓し、読者を獲得したことは英雄的な行為である。思想家や哲学者と言えども、文章を売らなくてはならないのだ。文学や批評の価値が社会的に低下しているという条件と格闘し、人文書が読まれなくなり、売れなくなっていくという環境の中で生き残らなければいけなかったという「ゼロ年代」のシビアさが要求したものでもある。

 東浩紀の主張する「データベース消費」に類する論ばかりが一人歩きし、それがあくまで制約の中にあるものに過ぎないという条件を人々が見落としやすくなる環境に、言説の構造全体が変動した。それは、『動物化するポストモダン』に内在している理由だけでは説明がつかない。むしろ、それを解釈し消費する共同体の問題であり、文筆業者に原稿の生産を依頼するクライアントの問題であり、コンテンツ生産業者や大学の経営の問題であり、それらをひっくるめた、批評を巡る言説空間の構造変動が背景にある。

それが証拠に、東の登場の裏側で、従来の素朴マルクス主義的な現実批判が鳴りを潜め、かつ論壇の主流を演じてきた大学の知識人たちがそれぞれの専門に雲隠れする。こうして戦後論壇が衰退するとともに、それとは何のかかわりも持たずまったく別個のところで、サブカルチャー批評が市場化したのである。

東浩紀の主張そのものが、「虚構」を継続させ、「浮遊感」を継続させ、その業界を盛り上げ、軽躁状態を作り出し、より消費させるために機能し、必要とされた。そしてその際、起源に存在していた枠組みや前提は意識的にか無意識的にか忘却された。

 「オタク文化」にのみ見られた浮遊感を継続させるために、彼の言説そのものがある種の「虚構」あるいは「虚構の延命」のための装置となり、業界に「浮遊感」を作り出すようになる。すなわち、これが東浩紀の言う「パフォーマティヴ」の内実である。

オタクであること、ネットに依存していることが、「ポストモダン」で「最先端」で「知的」であるという幻想に訴えかけ、オタクたちの中で心が弱く、知的コンプレックスが強い層に、「知的優越心」を販売すること。

宇野常寛はそれを「免罪符商法」と呼び、オタクたちが美少女たちを「安全に痛く」消費するレイプ・ファンタジーに寄与していると批判していた(とは言え、宇野常寛もまた、結婚したり会社から独立した後には、なぜかAKB48を絶賛する言説を発するようになり、その言説そのものがAKB48を「安全に痛く」消費する「免罪符商法」であり、レイプ・ファンタジーに寄与してしまっており、しかもそのことをダーク・ヒーロー的な思い込みにより正当化しているという現状との矛盾や齟齬を、明確に言語化してはいない)。

 そのような、「データベース消費」という知的言説が、新しい批評の読者を開拓した。それは、批評文を販売する産業にとっては非常に重要なことであった。インターネットそのものやコミュニケーションを理論化し、そのユーザーをエンパワーメントすることで、自身の理論や主張をネット上で大きく流通させることに成功した。ゼロ年代のオタク文化は、縮小傾向にある文化産業の中で、「参加型」の文化享受のスタイルに活路を見出すように消費・生産構造を変動させていく。ネット上で「作品」が話題の「ネタ」にされて消費される。そのような消費スタイルを論じる「批評」そのものも、「ネタ」を消費するのと同じようにそれ自体が「ネタ」として消費されるようになるのは時間の問題でしかなかった。ゼロ年代において急速に変容した文化消費・享受のスタイルの中に介入しながらもそれ自体がネタにされる無限循環構造こそが、ゼロ年代批評の行き着いた「果て」であり、同時にゼロ年代批評の核心でもあった。

現状、データベース消費は消費の悪無限、コミュニケーションの無限循環を生み出し、いつまでたっても「現実」に接触できないという焦燥感をすら生み出すものになってしまっている。だが、だからといって、データベース消費の外部に安易な「現実」が存在するはずはない。東浩紀が「日本2.0」の巻頭言で提示する「現実」も、性急な衝動へのその場しのぎのために与えられる、「現実という名前で呼ぶことにした虚構」に過ぎないのではないのだろうか。

「データベース消費」の概念は、それが限定された枠組みの中にしかないことを意識的・無意識的に忘却されたまま、流通し、受容されていた。当然、その「浮遊感」は「虚構」であり、ある条件がなければ継続が不可能であることを、東自身は少なくとも二〇〇一年時点では自覚していた。

 であるから、その「虚構」の継続が不可能であると判断がなされた場合、「歴史」や「政治」や「経済」の問題に彼が目を向けることは、全く旋回でもなんでもない。むしろ、抑圧されていたものの回帰である。だがその回帰の結果が、「現実」を装った「虚構」を生産するという、反転した形での反復となってしまっている点が重大な問題なのである。

ゼロ年代後半における、東浩紀自身の言説、キャラクターとしての役割演技、彼に原稿を依頼する産業の問題、ネットで発信しながらコミュニケーション的に作品を消費する読者、それらが形成した極めて閉じた世界における、批評的言説という「虚構」の多幸感的な消費――それこそが、ゼロ年代後半に、日本の批評界の一角で起こってしまった、ある特殊な事態である。

 

 

「現実」に覆い隠される現実――福島第一原発観光地化計画

 かくして、批評文販売業者としての東浩紀は、もともとアイロニーを好む性質もあったことと相互影響を起こし、自らの言説と本心を巧みに乖離させ、そのことを正当化していく理屈を複雑に多重に織り上げていくことになる。読者の側から見れば、何を言っても「それは違う」「逆の意味だ」と言い返され、知の権威の元にねじ伏せられ、批判することもできず、闇雲に超越化していく「東浩紀の本心」を追い求める羽目になる。東浩紀の立場から見れば、自分の本心を理解しないで、言葉や振る舞いだけで動かされる「動物」のような読者との乖離が激しくなっていく。

 「日本2.0」における東の発言には「何重にも」「捻れ」という言葉が、分析の中で何度も用いられているが、それは彼自身が自身のことを説明しているにも等しい。すなわち、自身の言説が「虚構」であったのだが、その継続を辞める決意を行った。それが故に、日本や政治、歴史や「現実」などを見つめると宣言している。それが単純極まりない二項対立以外のものでなく、ポストモダニスト東浩紀は自身の論の破産を宣告したに等しい。

彼が行おうとしているのは「日本」を作り直すことであり、そこにはまさに「擬似日本」を現実化してしまいたい欲望が見え隠れしている。「現実」を「擬似日本」化してしまい、「擬似日本」を「現実」化してしまうことによって、両者の区別をなくしてしまおうとする欲望。確かに、ここには何重もの捻れが存在する。

 例えば、彼が立案している福島第一原発観光地化計画の場合を見てみよう。「原発事故」という、日本の科学技術立国としての誇りを打ち砕き、生命の危険やインフラの危機を強く示唆するトラウマに対し、それを「テーマパーク」化するプロジェクトに、アニメ的な意匠を用いるアーティストを起用し、拡張現実を用いたアーティストAR三兄弟に協力が要請されていた。

 現実そのものをテーマパーク化してしまい、それを「現実」にしてしまえば、直面する現実そのものが「擬似日本」に等しいものになる。「虚構」が続かなくなったから「現実」を見ると言いながら、彼が見ようとする現実は、一度その上に虚構的な現実を覆い被せてしまったような現実でしかないのである。

この福島第一原発観光地化計画を、日本のサブカルチャーが、原爆投下に象徴される「科学技術」による敗北を一つのトラウマの起源として持っているという説を踏まえて、「第三の原爆」に「文化」によって対応しようという試みだと見ることは可能であろう。それは、福島原発の事故というリアルに直面せず、未だにトラウマを埋め尽くそうとサブカルチャーを動員することで、戦後日本の戯画的なパロディであり、反復になっているのだが、それではまたしても「現実との直面が先送り」になってしまうのではなかろうか。むしろ、そのトラウマへの直面ではなく、現実への直面の「先送り」の機能の方をこそ、このプロジェクトに感じ、批判する人間が多く出ることは当然のことであると思われる(「現実との直面が先送りになってしまうという現実」には遭遇するのだが、そのようなジジェク的な〈現実界〉の話をここでしているわけではない)。

実際に、われわれの生は、ほとんどバーチャルリアルであるかのような、擬似現実的なものに感じられるような条件の生もあるかもしれない。しかし、カント的な〈物自体〉やラカン的な〈現実界〉のようなことを持ち出さなければ、現実に直面することなど、いくらでもあるという批判は可能だろう。崖から落ちれば骨折するし、毎日農作業をすれば腰は曲がる、車で人を跳ねたら相手は怪我をするし、膨大な賠償金を払わなければいけない。家賃を払えなければ家を追い出されるし、家庭の中で喧嘩が起これば殴られることもある。このような些細な、生活世界に属する素朴な意味での現実は存在する。

このような素朴実在論的からの批判は、「虚構」が“全て”を覆い尽くしているかのような言説が蔓延している際には有効性を持ちうる。だが、素朴実在論も、あるいは逆に全てが虚構であると言うのも、虚偽である。その両者が混ざり合っているのが現在の生であり、東日本大震災を経たとしても、その“当事者”の苦しみや悲惨さに共感し想像したとしても、むしろその混濁が著しくなっていく状態こそが現在である(現実がショックを与えただけで現実に目覚めるのであれば、戦場でPTSDになった兵士は、どうしてもはや現実ではない悪夢=虚構に何度も魘されるのか。あるいは、現実が悲惨になればなるほど、願望充足的な逃避を生じさせるということもあるのではないのか)。

巨大で悲惨な大災害ですら「現実感のないもの」としてしか感じられなかったり、ショッピングモールなどの、ジャンクな「擬似日本」であることそのものを当たり前の事実として生き、「虚構と現実」を二項対立としては理解しないような生こそが、今ある〈新しい生の次元〉である。だから「現実」なるものを積極的に覆い隠し、あるいは「擬似日本」化させようと積極的に行い、さらにその「擬似日本」を「現実」なる言葉でさらに覆い隠すような身振りは、必要ないのではないだろうか。それを必要とする社会的条件に、今の日本があるとは思えないのだ。

「日本2.0」の巻頭言が、『動物化するポストモダン』と、ほぼ同じ主張を行い、まるで『動物化するポストモダン』の議論の延長にあるかのような見せ掛けを保ちながらも、決定的に変わってしまった箇所がある。そこで抹消されたのは、オタク文化が、「日本」の中にある「擬似日本」であるという主張なのだ。

では、オタク文化はどのようなものとして位置づけられたのか。『思想地図β』vol.3における座談会「アキハバラ3000――サイパン」を読むと、「オタク文化」と「日本」の関係がどう変わったのか、その認識(の曖昧さ)が明瞭に見えてくる。

 

 

ガラパゴス化と呼ばれる特殊な条件におけるオタク文化も〕衰え始めている――少なくとも一時のような成長傾向にないことも明らかになってきている。そのような状況のなか、日本は、とりわけそれを象徴するものとしてのアキバは、これからさきどこを目指せばいいのか。秋葉原ひいては日本が、三〇年後、五〇年後でも若者たちの聖地になり、世界中から人々が集まるようにするためにはどうすればいいのか。(p22)

 

ここでは秋葉原の問題に焦点を当てましたが、それは実は日本社会全体の問題でもある。オタクのライフスタイルというのは、それこそが戦後六〇余年の日本社会が達成した豊かさの象徴でもあるからです。だからこそ震災後のいま、戦後の終わり?とともにオタク文化の終わりも囁かれているわけですが、今日はむしろ、そこで終わりを嘆くのではなく、オタクの原点に戻り、秋葉原こそが世界中からマイナーな文化消費者を呼び集める聖地となることが提案された。(p38)

 

 

ここでは、秋葉原とオタク・カルチャーが、日本を象徴するものとされている。アメリカ産の材料を用いて作られた擬似日本という主張は表に出ないまま、オタク・カルチャーこそが「日本の象徴」であり「戦後六〇余年の日本社会が達成した豊かさの象徴」とされる。サブカルチャーで作られた「擬似日本」を、文化資源・社会的遺産として、新しい「日本」を構築するための心情的な基盤にしようとここでは提案されている。

これは確かに多重に捻れている。随所で東が参照を試みる日本の近代化とて、「日本」の精神を捏造したりして共同性を構築したものであるのだから、そもそもが明治以降は全て「擬似日本」であったとも言えるのだ(そこで日本近代文学は大きな役割を果たした)。本居宣長の国学も、「からごころ」を排して「やまとごころ」を取り出すという、ある意味で虚構の日本を作り出す試みであったが、それとて批判している漢学の方法論を用いて行われた。東は、『動物化するポストモダン』で、オタク・カルチャーを、外来の意匠を継ぎ接ぎして作った「擬似日本」であると言ったが、むしろ、近代化以降の日本もまた折衷主義的なハイブリットであったし、「やまとごころ」なるものを純粋に抽出しようという試みそのものが、それ以前にすでに混交することによって成立してきた文化・制度・歴史があったからこそ、生まれたものであった。

だから、「擬似日本」に対し、純粋な「日本」を探求しようという試み自体が、むしろ倒錯したものであった。今のような国家の枠組みやナショナリズムという概念自体がそもそも外来の意匠なので、捻れるのは当然といえば当然である。

だから、「擬似日本」と、「日本」の二項対立というのは、生じては歴史の過程で何度も混ざりあって、次第に「擬似」と「本物」の区別がつかなくなっていくプロセスを絶えず繰り返しているものと考えられる。オタク・カルチャーが「擬似日本」を形成している別種の「虚構」であるという言明が避けられているのは、それを新しい(本物の)日本の「現実」にしてしまおうとしているからである。

日本を新しく建て直そうと試みる際に、すでに社会的遺産と化し、文化的伝統と化したサブカルチャーを用いることは、間違ったこととは言えない。それはひとつの重要な試みである。

だが、東の論理構成には、どこかおかしいところがある。オタク・カルチャーが成長傾向にないから、オタク文化がどこを目指すべきかという問いに、日本の行く先の問題を接続させることで、オタク文化と国家の資金が結びつく未来を提示するのは、もっともなことかもしれない。

しかし、オタク・カルチャーが成長傾向ではないことがオタク文化の終わりを意味しているわけではないし、そもそも成長傾向でなければならなかったのは、東浩紀という人間が「虚構」の継続による「浮遊感」を求めていたからという理由に過ぎない。成長しない文化も、低迷していく文化も、文化である。

さらには、それほど金銭的に潤滑でなくても、ある種の浮遊感を得る文化装置は多く用意されている。産業としても、オンラインのネットゲーム、ソーシャルゲームなど、急速に発展しているジャンルもある。これらを、東はどう理解しているのだろうか。

 震災後、オタク文化の終わりが叫ばれたが、筆者の管見する限り、オタク・カルチャーは通常運転だった。震災の影響が内容面にあると思しいアニメ作品、例えば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』などは、記録を塗り替えるほどの動員数となった。長期的な経済的衰退が続けば、この文化も緩やかに停滞していくのかもしれない。しかし、それは震災とは関係なく、グローバル資本主義に潜在する問題や、長期不況によって、じわじわと訪れてきているものであった。

そもそも、阪神大震災オウム真理教事件、長期不況や閉塞感の中で「虚構」を維持し続けてきたオタク文化の慣性というのは、東日本大震災リーマン・ショックが起きてさえ続くものであったのだ。これは、ひとつの絶望でもあるし、逆に言えば、希望でもある。オタク文化に「日本」の基盤となるメンタリティーを期待し、そして社会的遺産としてそれが生み出した心情を肯定するのなら、この「動じなさ」をこそ、擁護しなくてはならない。

 そして皮肉なことに、安部政権が誕生し、アベノミクスなる経済政策で、株価が上がり、春闘では賃上げが相次いだ。金融資本主義の中では、期待感や高揚感などが生み出した虚構の数字ですら、現実の数字となる。アベノミクスがこのまま成功し続けるのかどうかは全く分からない。だが、東浩紀が「虚構」の終わりを宣言し、オタク文化が衰退していくとしたその直後に、オタク文化ではなく、政治と経済と労働の現場が、「虚構」による成長を選択し、「浮遊感」を得始めている。

 アメリカ(GE)と日本(東芝)のハイブリッドで生み出した、「第三の原爆」というメタファーで捉えられようとしている福島第一原発の事故を、アメリカ産の素材で生み出され、日本で畸形的に生み出されたサブカルチャーで覆い隠そうとする必死の努力の外側では、TPP参加を表明し、アメリカとハイブリッド化した日本の金融資本主義が、「虚構」を作り出し、そしてその虚構は実際に生活や生命に関っていく現実になる。占領軍とアメリカが作り上げたハイブリッドの戦後日本という畸形そのものの国は、在韓米軍などと協力しながら、今後も国防を行っていくだろう。

 冒頭での引用に戻るが、ここに書かれている「ぼくたち」とは誰で、誰がそれを正義だと教えたのだろうか。東京大学での指導教官・高橋哲哉、デビュー雑誌であり、『存在論的、郵便的』を連載していた『批評空間』の浅田彰柄谷行人は少なくともそのような主張をしてはいない。むしろその反対に近い発言を多く行っていなかっただろうか。

対談本『動物化する世界の中で』の笠井潔、『リアルのゆくえ』の大塚英志は、東の上記のような考え方を批判したが、そのときに「直面を避けること」を肯定しようと理論構築を行おうとしたのは東ではなかっただろうか。

ここで彼は「教えられた」というレトリックを用いて、まるで被害者であるかのように振舞っているが、実のところ、彼がゼロ年代批評の読者に「教えた」のだ。ここで使われている「ぼくたち」が指している共同性の範囲は、とても狭い。その「ぼくたち」の中には、多くの人々が、意識的にか、無意識的にか、抜け落ちている。

沖縄の問題も、原発の問題も、地方の問題も、格差の問題も、常にあった。それに向き合うことこそが正義だ、と多くの人間は主張していた。そして、そのような起源にあるアメリカの問題、政治の問題、経済の問題は、『動物化するポストモダン』において東浩紀自身が確実に認識していたし、「日本2.0」で東が紙幅を大きく割いて高く評価する村上隆がその表現を通して――「リトル・ボーイ展」だけではなく、時には偽悪的ですらある世界市場の投機性を見せ付けることで――突きつけようとしてきたことなのではないだろうか。

 彼が今、「現実」という名で直面しようとする身振りこそが、虚構である擬似日本を延命させることになる。今こそ、この多重に捻れた「現実」の欺瞞性を撃たれなければならない。さもなくば、この「現実」が真の「現実」であるかのような錯覚が蔓延し、流通したときに、様々なものが新たにまた隠蔽され、排除され、視野の外に消えるだろう。

「日本2.0」の巻頭言は、書かれた瞬間にその文章そのものを裏切り、過去の東浩紀の思想も裏切り、読者も裏切ってしまっている。どうしてそのことを、ゼロ年代批評の読者たちは、裏切りと感じ、抗議しないのか。知的権威やレトリックに煙に撒かれ、批判することそのものが馬鹿に見えるような風潮それ自体が、ゼロ年代批評が用いた詐術に過ぎない。そのような詐術から醒めた眼で虚心坦懐にテクストを読めば、誰だって思うはずだ。これはハイコンテクストでアイロニカルで多重化した高度なテクストだ……などと、教祖の言葉のようにありがたがり、真意を読み取ろうと無駄に努力する必要はない。これは単に、支離滅裂で幼稚で不誠実な文章である。

 

 

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅰ

(承前、本稿は『別冊情況』思想理論編第二号に掲載される)

 

 第四の蜂起 Enjoy!Enjoy!Enjoy!!!

 

 今朝マクドナルドで朝食を食べた。レジで母親と同じ年齢ぐらいの優しそうな店員が「朝マックのソーセージマフィンを無料でお試しいただくキャンペーンをやっています!」と大きな声で呼びかけている。

 以前からマクドナルドは、無料クーポン配布のキャンペーンを行っていたが、現物を無料でその場でくれるなんて! ここまで来たか、マックキャンペーン……刺激をどんどん増幅させてゆく無料キャンペーンに胸が高鳴り、思わず「お願いします!」と申し出を受け、ソーセージエッグマフィンを食べた。子供の頃から馴染んだ、かりっと焼けたバーガーとマフィンとジューシーなチーズ、その味は、企業努力の成果であり、自分で作る朝食などよりもよほど美味しい。しかも今日はまさかの無料! 

 マクドナルドは、二〇一三年の一月に約一ヵ月間「Enjoy! 60秒キャンペーン」と呼ばれるキャンペーンを行った。客が商品を注文してから六〇秒以内に店員が商品を提供できなければ、無料バーガー券を発行する。基本的にハンバーガーの作り置きはせず、その場で作って袋に包みドリンクも入れ、サイドメニューなども確実に提供しなければならない。カウンターには六〇秒を測るマクドナルドカラーの赤と黄色の砂時計が置かれる。イエローの砂はアッという間にさらさらと落ちて行く。無料券はたくさん支給された。

例えば、手の込んだメニューを一〇個頼んだとしよう。昼時の混雑時に勤務シフトを入れている店員が、このキャンペーンで砂時計の黄色い砂の落ちる音と共に、形容し難い悲鳴を上げ、テンパる。そして「テンパった状態」が常態化される。なにがEnjoy!だクソ野郎、と思う暇すらない。

しかしそこは世界のマクドナルド、ネガティブな反応を見越していないはずはない。このキャンペーンは、ネットですぐに大きな話題となった。「60秒キャンペーン」と検索すると実際に「(バイトを)やめたい」という書き込みがすぐにヒットする。他方で、「60秒キャンペーン攻略法」などと題し、「揚げたてポテトの塩抜き」などという時間のかかるメニューを頼み、無限に無料券で食事をしようとするゲームの攻略方法などがみつかる。

一方、多くのネットユーザーは店員に同情する。「そこまで急いでいない」、「誰得(誰が得するんだ)キャンペーン」などと、マクドナルドに対する批判の声が多く書き込まれた。不必要であまりに酷いキャンペーンとして、話題をさらった。ネットでは雇用者側が現場の働き手をいかに物扱いしているか、という論調が多かった。しかし、多くのテレビや新聞でこのキャンペーンはニュースとなり、ネットで話題をさらったわけで、企業=日本マクドナルドとしてはゲームの第一章を簡単にwinした。店員の悲鳴や批判的な世論などは関係ない。それも織り込み済みのゲーム設計だからだ。

日本マクドナルドホールディングの広報は、この六〇秒キャンペーンを行う理由の一つにマクドナルドのスピーディーさをゲーム感覚で楽しんでもらおうという意図から開始した」としている。混雑時のイライラを、六〇秒で商品が来るかなというドキドキに変え、店員の仕事の効率も上げ、待ち時間を短縮しゲームにする。知らない合間に脳内報酬系が作用し、Enjoy!と客に提供される。

ゲームをプレイした者は、結果や思想がどうであれ、体験をSNSなどに書き込んでしまう。ゲームに参加した者は、文句を書いたとしても、そのゲーム体験は脳に残る。そして快楽と化し、またマクドナルドに反応してしまうのだ。マクドナルドの仕掛けたゲームの落とし穴に多くの人間がはまり、twitterfacebookなどのSNSやブログや匿名掲示板には、おびただしいマック商品の画像があがった。時に店員が急ぎすぎてダブルバーガーが崩れたり、包装がチグハグだったとしても、その画像は笑いやマクドナルド経営者への批判として、崩れたハンバーガーたちはネタとして、コミュニケーションの安い材料として見事に消費された。マクドナルド・ブラックの企業ネタは現実に賃金闘争や労働改善の風をおこすことなく、ネタとしてネットを泳ぎ続けている。このゲームを真に操作し楽しんだのは客でも店員でもなく、実はマクドナルドの経営者たちなのだ。

 われ/われは、安いもの、馴染んだもの、ゲーム性の快楽をそう簡単に捨て去ることはできない。それは当然だ。だが、叩き台のネタとしてしばしば叩かれるマクドナルドが恰好のネタを提供してきたとしても、それに安易に乗って叩くだけで終わっていいのか。ネットで内輪揉めをして充足するだけでは、自分の身を安い材料としてマックのゲーム設計に捧げているだけなのだ。

 経営者-サービス労働者-消費者-SNSと巡る蟻地獄のような循環と逆循環。だが諸君、真に面白いゲームとは、「ゲームのゲーム」すなわち、そのゲームのルール自体を作っていく/変えていくゲームではないだろうか! だとするなら、このようなゲームのコマにされ続けている労働者、消費者が、一転して戦うプレイヤーになれば、ゲームそのものに新しい展開が生まれるだろう。 

マクドナルドの店員がキャンペーン当日、満員の客を前にして一斉にストライキを行うというゲームを始めるとしよう。次の一手が繰り出されるだろう。それは雇用者側からの仕掛けかもしれないし、キャンペーンを望む客からのアクションかもしれないし、SNSユーザー・ネットからの後方支援かもしれない。マスコミも参加するかもしれない。そのゲームが一通り成功しても、安売りが終わって商品の値段があがり、次は業績不振を理由に店員の雇用が切られるかもしれない。そうしたら、また、次のゲームを始めればよい。

既存の労働組合も、生活協同組合も、真に必要な非正規雇用者の救済に動かないのであれば、われ/われがゲームを自らの手で行うしかない。たった六人の非正規雇用者でストを行った東京メトロの勇敢な売り子たちに続くのだ。

そう、マックが用意した合言葉、Enjoy!と叫びながら。EnjoyEnjoyEnjoy!!!

 

 ゲーム化が行われているのは消費の場面だけではない。自らの身体・人格・知性を労働市場の商品として売りに出す就職活動にも、ゲーム化は起きている。

 リクナビ、マイナビに代表される就活サイトがスタンダード化したことにより、学生は企業の情報を簡単に手に入れられる時代となった。ネットで誰もが簡単に応募できるようになったお陰で、勝率の低い賭けを下手な鉄砲のごとく数多く撃たされる羽目になった。そして、「就活」と呼ばれる活動の攻略法が作られた。

他のライバルに遅れを取らず、自分をより良く見せる方法が無難な「お手本」として確立される。負けたくない学生たちはそのお手本を模倣し、それが自分の形に当てはまるように心身を矯正することによって、苦難のゲームに挑むことになる。その結果、就活の場面では、「お手本」になりきる力と、相手の質問に相手が喜ぶ答えを返す能力が試されることになる。その質疑応答すら、パターン化される。それを逆手にとって、「ここが個性の発揮される場所なのだ」という話になりそうだが、これこそ罠である。一旦、「お手本」によってフラットにされてしまったハードの上に乗せられる個性など、個を司る芯には成り得ない。

 企業は、個性を殺してお手本に忠実になった学生に魅力を感じるようになる。もちろん、大企業では「個性的学生」の採用も行なっているはずだ。しかし、倍率が百倍を軽く超すようなシチュエーションでは、余程の魅力をもった個性でなければ埋もれてしまうだろう。また、中小企業は採用人数が少ないため、人とは異なる異質な人材を入れるリスクに躊躇してしまう。こうして、無難であることが唯一の道になってしまうのだ。

 ゲームと割り切って「お手本」通りに生きれば話は早い。だが、世の中にはそのような社会に適応することに疑問を持つ、あるいはできない人々もいる。その場合、社会と真っ向から向き合うことになる。

簡単なことではない。コミュニケーションスキルに難があり、上手く面接ができない人間が社会と向き合って生きていくには「他者より遥かに秀でた才能」が必要となる。作家でも、画家でも、音楽家でも、何らかの分野において飛び抜けた人間が到達できるラインに、諸君は登らねばならないからだ。それはやはり、難しい。

ネットで誰でも表現ができるということは、同時に、誰もがトップの表現者と常に同じラインで評価されるということを意味する。そのシビアさは心理的にあまりに苛酷である。

社畜になるか、バイトをしながら「才能」の夢を見続けるか。その二択しかないかのように見せかける社会などというものに、われ/われは疲れ果てている。「才能」などあるかどうか分かりもしない。成功者に後付で「才能」というラベルが貼られるだけだ。われ/われなどは、連射される機関銃の一発でしかない。何万発に一発が的に当たれば、それでよい。

叶う確率が現実的に考えればほとんどないに等しい夢を追い、自己正当化のために現実を見られなくなり、「表現者ビジネス」に金を搾り取られ、精神を破壊され、打ち捨てられる。そんな悲惨な未来をわれ/われは受け入れない。われ/われはビルから飛び降りたくはない。そのような産業要請がこしらえた「才能」の自己分析の無限迷宮の中に閉じこもる気はない。

対峙し、ゲームのように、楽しみながら戦うしかない。それしかない。

 

 

 

 

第五の蜂起 コミュニケーション=空気の監獄

 

 大阪のスポーツ名門高校で、部活の顧問が生徒に体罰をあたえ、生徒が自殺するという事件が起こった。体罰による死は、初めてのことではない。その度ごとに体罰をめぐる議論が起こり、再発防止が声高に訴えられる。にもかかわらず、これからも「指導死」は起こるだろう。これは体育会系に今も残る日本特有の封建制の残滓だと識者たちは言うが、それは違う。

 今回の体罰死をうけメディアで意見は割れているが、識者たちはその暴力の現代的な質を決定的に見逃している。「体罰絶対反対」から「暴力は駄目だが、体罰は認めるべき」、極論として「生徒には体罰を受ける権利がある」まで、議論の幅がある。

現場では、指導と暴力のあいだのグレーゾーンが、巧みに利用され、教師による生徒へのむき出しの暴力は、教育的指導という言葉と両者の人間関係により隠蔽されてきた。なぜこのようなグレーゾーンが生じるのか。学校という制度そのものに欠陥があるからだ。

 学校は権力である。幼き身体を、国民=労働者/兵士へと鍛え上げる。「労働者にあらず」という〈非‐労働者〉を学生にわりあてるのではなく、「まだ労働者ではないが、労働者化の過程にある」という〈前‐労働者〉を学生の社会的身分としてわれ/われは提示する。

〈前‐労働者〉として学校で受ける暴力は、社会の暴力であるだけではない。学校こそが、社会を生み出している。たとえば、「学校」を舞台にしたエンターテインメント小説の大流行を見れば、それは明らかであるだろう。学校/社会という境界は崩れ、社会こそが学校化したのだ。

学校倫理をあまりにも内面化している学生生徒は、学校による身体の管理に、時に自ら喜んで身体を差し出す。一昔前の流行歌のように、「行儀よく、真面目なんてできやしなかった」と叫ぶ意志が、分かりやすい反抗が、既に消されている。「ディシプリンからコントロールへ」とドゥルーズが看破したように、これは権力の統治形態の変化と連動している。

権力としての学校が生徒を管理するやり方が変化している。学校が体罰を温存する環境であることは否定できない。だが、その一方でかつてよりも体罰が減ってきているのはたしかだ。より「人道的」な指導方法が提唱され、実践されてきた。少子化もその背景にある。暴力的な管理の必然性が薄れてきている。

その結果、身体管理の方法が、身体に直接的に影響をあたえようとするところから、コミュニケーションをめぐるものへとずれている。暴力(体罰)は、固体としての身体へ加えられる物理的な力だ。「矯正」である。ところが、コミュニケーションは、身体を液体のようにあつかう。液体化した身体は、自らの外縁をうしない、どろどろと不定形のまま、その場の空気によって流れが支配される。「伝えるべきメッセージ」からはいつの間にかメッセージが脱落し、「伝えるべき」という事実性のみが残る。

 かくして幼少期から訓練する身体の技術は、コミュニケーションとして結晶化する。固体であれば矯正に抗うことが反抗となったが、液体にはそもそも矯正が機能しない。液体化した身体の関心は、いかに表面張力を駆使し水滴どうしで結合しあうか、ただそのことのみにある。学校の教室では目的としてのコミュニケーションが前景化し、各人のコミュニケーションが複雑に重なり合って、その場の空気を作り出す。

 われ/われはその中で窒息している。だが、同時に、その空気を作り出していることもまた深く自覚している。窒息させられながらも窒息させる環境を相互に作りあう被害=加害的な世界の中で怯えている。このような相互に織り成す不信のネットワークの監獄から飛び出し、外の空気が吸いたくなる。コミュニケーションは必要なことなのか! 良いことなのか! 少なくとも、それは絶対的なものではない。

 

コミュニケーションが重要なものとみなされるのは、社会が労働者に対して「コミュニケーション能力」を要求しているからだ。第三次産業が主要な産業と化した現在では、サービス業、アナリスト、アーティスト、作家、管理職、ケアマネージャーなど、人と人の繋がりや情報を商品にする産業が繁茂している

しかし、ブラック企業の店長候補も、ひたすら機械的に打ち込みの作業をするのも「第三次産業」である。広告産業やマスメディアや世界的な芸術家も「第三次産業」である。これらは、実際にその待遇も仕事内容も異なっている。実質上奴隷労働に近いような第三次産業も存在する。同じような「流動性」に直面していることは事実でも、創造性とそれに付随する「開かれ」に期待できるかどうかという差異は確実に存在する。

 このことが、プレカリアートたち、非正規雇用者たちの連帯を分断する亀裂となっている。クリエイティヴィティが正のフィードバックにつながる人々と、単調な労働の中でバーンアウトになるという現実。この二つは、未来の展望が、希望の持ち方が、開かれ方が、根本的に違う。たとえ前者にあるとされる「希望」が幻想であったとしても、後者から前者への憧れと憎悪は発生する。

 コミュニケーションや記号操作に希望を見出すことができ、イノベーションを起こし、新たな地平の輝きにいるように見える人々と、ただひたすらコンビニで接客し、クレーマーに対処し続け……という人生。両方とも、コミュニケーションを実体とする仕事をしている。だが、後者の方がより窒息感が高い。であるがゆえに、「希望」を求めてしまう。前者との分断はそこで生じる。

 その分裂を生み出しているのは産業構造の変化と、必要とされる労働の変化である。それらが、われ/われの内面を作り変えようとしているのだ。そしていま起こっている蜂起は、空気の窒息感により外に出たいと思う人々の蜂起である。希望を求めての蜂起である。

 

子供たちは、自己目的化したコミュニケーションを繰り返し、どこまでもその環境の内圧を高める。空気の読み方は、意図して身につけられるものではない。自然な身のこなしとして表出し、空気の存在は読み違えたときに初めて意識される。言語ゲームのルールのように、その場に居合わせた者たちの手によってその都度作り上げられていく。

 そしてこの空気は、空気として存続するのに必要なテンションを保つために必然的にいじめを生み出す。子供たちは、コミュニケーション力を軸に序列化され、スクール・カーストを形成し、下層の子供たちは上層の子供たちによっていじめの対象とされるリスクが発生する。

一部の論者は、体罰やいじめを減らすために、外部の目を導入すべきだとする。だが、学校の外の社会に出たあとも、陰湿ないじめ/パワハラ/セクハラ/退職強要といったブラック企業的暴力は横行している。学校でのいじめを通じて、被害者も加害者もそんな社会で「働く」ための予行演習を、まさに〈前‐労働者〉として行っているのだ。

 学生としてのあなたは〈前‐労働者〉として、同調圧力とコミュニケーション至上主義を体感する。卒業後、コミュニケーション至上主義によって馴致されたあなたの身体は、グローバル化の波にさらされた崩壊寸前の日本企業によって、最後のエネルギーをかすめとられる。日本型経営の悪しき側面だけが何十倍にも濃縮されたブラック企業は、解雇にともなう訴訟リスクをヘッジするために、ソフトな退職勧告を職場の空気によって行い、若年労働者を次々と廃人へと追い込んできた。ブラック・グローバル企業は、日本の労働者と社会資本をむさぼりつくし、海外へと逃亡していく。

 

ノマドという言葉が発明された。「ノマドと社畜」などという言葉もある。

ある外食産業に正社員として務めているわれ/われの一人は、これを経験した。一年間で四回の転勤で、北海道、福島、北関東を転々とさせられた。2週間前に出される辞令によって、人間関係も生活基盤もまっさらになりながら、移住していく。

定住をしないのだから、まさにノマドであり、しかも社畜である。彼女は、この数年に何度も交通事故を起こした。仕事先が一二〇キロ先の距離にあり、睡眠が取れていなかったからである。真冬の高速道路で車がひっくり返り、割れた窓から吹雪が吹き付ける中、家まで帰った。これが、ノマド、かつ、社畜の運命である。

われ/われの忍耐はすでに限度に達している。これでいいのか。あなたがたはこの空気の監獄の中で息苦しくはないのか?

われ/われは権力としてのコミュニケーションに対して蜂起しなければならない。相手が管理者であれば、空間的・物理的に有限であった。しかし、いまや権力はコミュニケーションだ。われ/われには、どのような蜂起の形が可能であるのか。

 われ/われを支配するコミュニケーション。われ/われを取り巻くコミュニケーション環境。それは、使い方によっては抑圧する権力を液状化し、拡散させることができる。話は簡単だ。教師に殴られたとしよう。それをケータイで録音しろ。録画しろ。ウェブにアップしろ。匿名掲示板で告発しろ。ツイートしろ。フェイスブックでシェアしろ。YouTubeニコニコ動画にアップしろ。弾幕をはれ。「いいね!」ボタンを連打しろ。RTしろ。

 そのようなネットワークやソーシャルメディアもまた、暴力と化してしまう逆説を理解しつつもなお、われ/われはその可能性に賭ける。なぜなら、テクノロジーとは、本来、人間に力を与えるものだからである。使えるテクノロジーであるならば、合法的にそれを使わない理由はない。行使し続けよ、そして政治の概念も、われ/われの力のあり方すらも、更新してしまえ。

 

 

 

Ⅱ-Ⅱに続く) 

 

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号

 

 

いまここにある蜂起Ⅱ-Ⅱ

(承前)

 

 第六の蜂起 あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)

 

 

 

「つながり」という言葉が大流行している。ネット上で作られる人間関係のネットワークは「ソーシャル」と呼ばれ、従来あった「社会」とは別種のものと考えられている。身体を伴った共同体が希薄化してきているのを補うかのように、ネット上に現れたソーシャルが、オフ会などを通じて身体を伴う共同体を再形成したりしている。

 液体化した人々は、表面張力を通じて「つながり」に対し、相反する二つの力を受ける。つながろうとして接近すると斥力が働いてつながれず、「炎上」のような暴力を生む。過激なセクトやカルトに見られるように、離れようとすると引力が働いて、異分子を許さない暴力を生む。つながることにもつながらないことにも暴力があり、その中間で流動している最適な線の上でいつも揺れながら綱渡りの緊張感を強いられている。

昨年の衆院選で、議員によるツイッターでの「つぶやき」が公職選挙法に抵触する恐れが出た。それも今夏の参院選からは解禁される。サイトやブログに加え、急速に普及しているツイッターやフェイスブックといったソーシャル・ネットワーキング・サービス、さらには電子メールによる投票の呼びかけも全面的に認められるだろう。

他方で、インターネットと、日々飛び交うコミュニケーションは、時に蜂起や革命をも用意しうることを数年前の中東革命は証明した。今やわれ/われはネットという新たな「現実」を獲得し、そこでわれ/われが培い育んだ「連帯」は、社会を変える力をたしかに持っている。

ところがだ。イラーイ・パリサーが指摘している。ひとびとは、好みの情報だけを取捨選択できるフィルタリング技術と作法を身に付けることによって、急速に「閉じこもり」つつある。さながら、ツイッターの各人のタイムラインが象徴するがごとく、私に見える風景とあなたに見える風景は絶対に共有できない。

 だから、自分自身の見えている風景の中での正義を行使することが、他人にとって、リンチに等しい暴力である「炎上」になってしまうことがある。

 

在特会など、ネットと現実の両方にまたがる新しい社会運動は、蜂起を行おうとする個々人の感情を背景としているかもしれない。それはわれ/われが肯定する蜂起と感情的な質を同じにしているのかもしれない。いや、間違いなく、している。だが、彼らとわれ/われは違う。われ/われは、ある集団の存在を自明視しない。ある共同体の存在すら自明視しない。誰かに勝手に作られた枠に留まることはしない。在日韓国人」などという集団として相手を見ることもしないし、「日本人」という集団として「われわれ意識」をもつこともしないだろう。

既存の集団の「輪郭」を飛び越えたりすり抜けたりする、断片的な集合のあり方をわれ/われは肯定する。現実に、われ/われはもうすでにその中に生きているのだ。その変化への反動として、旧来の「輪郭」を求める気持ちはよく理解できるとしても。

だが、本当は存在しもしない敵を仕立て上げて架空の連帯を作る必要などあるだろうか? われ/われはそれが面白いのを知っている。われ/われは、それをオンラインゲームのなかで行っている。ゲームの中で架空の侵略者たちを何百万人と殺害し、崇高なる連帯感を得るのは、とても楽しい。

だが、われ/われは、「われわれ」にならないまま、「われ/われ」として連帯できることを知っている。中国で大規模な反日デモが吹き荒れ、商店が破壊されている最中に、中国人と韓国人のプレイヤーとオンラインで協力プレイをしながら、ゾンビの群れに火炎瓶を投げ込むこともできる。われ/われはすでに国家の輪郭を超えている。自動翻訳の性能が上がれば、言語の壁ももうすぐ越えるだろう。

 しかし、そのようなソーシャルや記号の連帯の中で、「外部」として錯覚されてしまうものがある。それは、身体と暴力、そして死である。だがそれとて、色濃くコミュニケーションの中にある。

 

 二〇一二年の目立った大規模な反原発の行動として、首都圏反原発連合による金曜官邸前行動がある反原連の行動の指針について考えるにあたっては、リサイクルショップ「素人の乱」が呼びかけてなされた二〇一一年の「原発やめろデモ!!!!!」との連関に注目するのが適切だ。

原発やめろデモ!!!!!」を見舞った一つ目のトラブル、一一年六月一一日の新宿のデモで生じた。「原発やめろデモ!!!!!」は、新宿のデモにて統一戦線義勇軍の議長である針谷大輔を出発前アピールに呼ぼうとしたが、デモ出発前ギリギリになりこれを止める。第二次世界大戦を肯定する針谷の登壇を批判する声がTwitter上に生じたことが事の発端になった。さらに、デモ当日には、針谷の登壇を望んだ青年が日の丸を掲げてゲリラ的に壇上へと登るハプニングがあり、針谷の登壇を批判したものたちとの間での諍いが発生した。日の丸及び脱原発右翼を、反原発運動がどう評価し、向き合うか。

原発やめろデモ!!!!!」における二つ目の躓きは、九月一一日の新宿デモでの、デモ参加者に一二人もの逮捕者を出した逮捕事件があった。「原発やめろデモ!!!!!」はこの第二の深刻なトラブルにより、活動を休止せざるをえなくなった。

これらを乗り越えるべく、野間易通ら反原連は、第一に、脱原発のシングル・イシューということを唱えた。反原連は日の丸を容認している。第二に、逮捕者を出さないよう徹底したデモの警備態勢をとる。一八時に始まり、二〇時には参加者に帰宅を呼びかけ抗議を終了させる

毎週金曜日に開催されていた首相官邸前のデモで、「過剰警備反対!」のコールをあげつつ歩いたとする。参加者のおばさんに「そんなことを言うな!」と怒鳴られるだろう。警察と揉めてはいけない、だが抗議はしたいという市井の人々が数多く集まっているのだ。警察との約束に基づき二〇時には参加者を解散させるパターナリスティックとも言える大衆管理の手法は功を奏し、前年の素人の乱のデモを超える大衆動員を現した。毎週同じ場所に同じ時間に集まり続けるというスタイルも、人と人を結びつけ、同種の思想を抱いた市民たちのコミュニティを作り出していくのに一役買った。

だが、このままでいいのか。多数の人々が野田首相原発再稼働阻止を訴えるべく官邸前に集まった日本の社会にとって反原発の行動は、集団で散歩している不審者に過ぎないのか。首相官邸前での、とある反原発直接行動では、ナイフを鞄から取り出した青年が逮捕されるという事件があった。血と暴力、死の匂いと身体性に溢れた出来事であり、ソーシャルにおいて疎外された欲望を見事に体現していた。

だが、これとてデモンストレーションの最中に行われたパフォーマンスなのであり、メッセージであり、コミュニケーションに過ぎないのだ。

 秋葉原での衆議院総選挙の自民党街頭演説では、多数のネットウヨクの若者たちが集まり、無数の日の丸の旗をそよめかせた。そして、朝鮮人は出て行けという排外主義の主張もまた叫ばれた。われ/われは、日の丸の旗を久方ぶりにここに多数見出した。

 二〇一三年三月一七日に、在特会が新大久保で排外主義を謳うデモを行った際、野間易通の呼びかけによって結成されたレイシストをしばき隊」が活動を行い、小競り合いが生じた。

この両者の衝突は単なる暴力や身体の問題ではない。彼らを取り巻く人々の関係性やコミュニケーションや空気の圧力の結果として、行動が起きている。身体的な暴力すら、人々を最も魅了し、メディアに取り上げられ、話題になり、議論の「ネタ」になるための材料になってしまう状況の中では、擬似的な外部でしかない。

外部が消失してしまうかのように思い込ませ、外部に出たと思えばそこもまた内部に反転させ続け、外部への到達を不可能だと思わせ続けるような装置。そのような暴力装置の中で窒息するがゆえに、われ/われは擬似的な外部へと誘導されやすくなる。

 

 われ/われは、時々ある誘いを受けることがある。活動をしてみないか、組織してみないか、その代わりに書かせてあげるよ、本を出させてあげるよ、と。無名で、何の価値もない虫けらのようなわれ/われは、容易くその誘惑に屈してしまう。それは、グローバル資本主義と格差を利用している。

 われ/われは、自分が正しいと思い込み、その手段を正当化するような既存の活動家たちにも蜂起を宣言する。彼らに権威や社会的地位や利権があるがゆえに、そのような蜂起が、自身の首を絞め、生活を脅かすことになろうとも。われ/われはその矛盾に耐え続けることもできないし、黙り続けることもできない。沈黙を強いてくるものが「声なき者」や「弱者」の代弁をしながら利権と資本を行使し続けている矛盾に耐えることはできない。

だから、われ/われは蜂起する。その点では、既存の左翼が権威と化して既得権益をもち、メディアを支配し、様々な真の問題や声を押し殺してきたとする在特会の主張にも、一定の共感と理解はせざるをえないのだ。われ/われは、在日と呼ばれる人に特権があるとは思わないが、彼らの主張の断片には連帯する。ある部分では、それを拒絶する。われ/われは、「われわれ」ではないのだから、そのように連帯する、いや、つながることができる。

 

首相官邸前デモや、フジテレビデモには、身体的な暴力を振るうことを好まない傾向があった。乳母車を押し、子供連れであることに象徴される両者の共通性――それは時に父権主義と訳される「パターナリズム」ではなく、むしろ母権主義的な運動である

とはいえ、身体的ではない暴力もまた暴力であるというふうに、われ/われの社会は感受性を変えてきた。それは産業として感情や人格、コミュニケーションが前景化してきた傾向と即応している。

紫陽花革命やフジテレビデモのような「母性的なデモ」。さらにはソーシャルやネットの次元での蜂起。それらが疎外したがゆえに苛烈化していく、身体的な暴力を志向するデモ。この三つを便宜的に切り分けてみよう。

ここで重視しておきたいのは、「身体的な暴力」を忌避しようとすることもまた暴力を呼び起こしてしまうという点である。

花王不買運動やフジテレビデモなどは、お茶の間で見るテレビに韓流が多いことなどを批判の根拠にしており、母性的なデモであった。一方で「紫陽花革命」もまた、放射線による生活不安や子供の未来を問題にし、子供連れの主婦の多い運動であった。

そこで「暴力」を悪魔祓いすることが困難なのは、「一部の暴走」のせいだけではない。なぜなら、もうわれ/われは、言葉や情報の中にすら「暴力」が存在すること、暴力の定義の無限拡大の可能性に手を染めてしまっているからである。そうなってしまった以上、コミュニケーションにもソーシャルにも、熟議にもカフェにもサロンにも暴力が満ちていることになる。窒息したくないがゆえに、暴力や身体という、コミュニケーションの外部を求めてしまう。

言葉、仕草、ときには存在すら暴力であるという濫喩の世界の中で、暴力を行使する側でありながら暴力を振るわれ、罪責感を促進させ、それを他者に向けてしまうようなスパイラルにわれ/われは追い込まれている。

暴力の位相が変化してしまった以上、われ/われはコミュニケーションに潜む暴力に直面しなければならない。身体的暴力よりも、より容易に加害者にも被害者にもなりうる。そういう世界を、自ら作り上げてしまった。

 この社会は、こうわれ/われにこう命令している。あらゆるものは暴力である(よって、すべては暴力ではない)。

 では、「正しい暴力」と「間違った暴力」があるのだろうか。その正当性の根拠は何で、誰がどう判断するのか? つながりの引力と斥力の綱渡りを強いられるように、われ/われはいつも、加害者と被害者の両者を相互転換させられ、どちらにもならないように緊張を強いられている。

 だが、われ/われは告発する。このような生を強いられることこそが、重大な暴力である。こんな緊張度の高い状態で自身を維持するように強いる圧力こそが、われ/われの敵である。

言葉と認識を武器に、精緻な読解によって、この蜂起は、いや記号の内戦状態は、戦うことができる。あなたの打つキーボードの一タッチさえ、ひとつの銃弾なのだ。戦え!

 

 

 

第七の蜂起  昆虫化するポストモダン

 

コミュニケーションやゲームは、現在、脳内報酬系を刺激するようにデザインされている。人間のネット上での行動や、生活の感覚もまたその影響を強く受けている。

 ヤフー・リサーチの主任研究員、ダンカン・ワッツは、コオロギの研究者であった。ある虫が鳴けば、他の虫も連鎖して鳴く。そのような虫のコミュニケーションを研究していた人間が、現在、インターネット上の人びとの振る舞いを観察・研究し、行動を設計している。それは、人間性に対する侮辱に思えるかもしれない。しかし、統計的データを見ると、人間は、自由で責任を持ち行動を自己決定している〈主体〉であるというロマンチックな思い込みは捨てざるをえない。群れとしての人間は、動物でも家畜でもなく、虫に近い集合的行動をしているように見えるのである。人間行動が昆虫のように、現に扱われていることを示す“科学的”データが大量に集まってきている。ある学者はいう。内省的な自意識をもつのは人間のうち三割、その他の七割はそのような自意識を持っていない。様々な覚醒レベルのグラデーションの中で人びとは生きている。ほとんど無意識に近い状態で社会関係をこなし、この世界で生きて動いているときもある。われ/われもまた、時にはそのようなゾンビ状態で生きている。

 現在、かようなまでに脳科学的に人間に働きかけ、人間をコントロールする技術が発展している。Microsoftはその社内に脳・心理学の研究ラボを持ち、その成果をゲーム開発やソフトウェア開発に応用している。パチンコやソーシャルゲームにおける、脳内報酬系への刺激のデザインだけではない。映画も、ゲームも、それから小説さえも、ある特定の脳内報酬系を刺激するだけの装置と化している。脳の一部に、崇高な音楽が鳴れば崇高な感情を抱いてしまったり、特定の視覚的刺激には高揚感や宗教的感情を抱いてしまうようなだらしない部分があることを、われ/われは実感として否定できない。われ/われの脳はそのような単純なシステムであり、そのような単純なシステムを刺激されることは途方もない快楽であると仮定された上で、文化が作られている。

 文化で起こっていることは、政治と無関係であるはずがない。「政治とサブカルチャー」が混在している現在を、われ/われは直視しなければならない。なぜなら、今や政治の現場はネットにも移っているからだ。ネット流行語大賞にもなった「ステマ」(ステルスマーケティング)に象徴されるように、ネット上である商品の評判をコントロールして消費者を誘導する技術は現に存在する。そしてそれは、広告産業が「政治」と大きく結びついてきた歴史を鑑みると、当然政治にも応用されるもの、現に応用されているものと考えなくてはならない。

 

われ/われはすでに経験している。Twitterを通じてある候補に対する否定的な意見を言うとする。するとそれに反論をしてくるアカウントが複数立ち上がる。まったくの別のアカウントながら、なんと反論のメッセージはまったく同一なのである。詳細は不明だ。ある単語を抽出し、それに対する反応を自動化させるbotが使われていたか、あるいはそれに類似する行為を手動で行っていたのではないかと思われる。ことほど左様に、ネット上においてあなたが接する他者が人間なのかどうかすら、ほとんど判別できなくなっている。

だから、われ/われは警告する。“科学”や“データ”を疑う必要がある。それは、広告代理店や、本質は広告会社であるgooglefacebookyahooが自身の価値を誇大に広告しようとしている戦略の一部である。科学とデータの権威を魔法のように使い、「広告」や「マーケティング」のシステム自体を広告する戦略である。マーケティング、リサーチ、マスメディアの利用などにより、昆虫に相互作用を起こさせるようにして「関係性」を操作し、「流れ」を作り出すこのやり方こそが、現在の資本や国家が用いている戦略である。

われ/われは、われ/われを昆虫とみなすその視線を、受け入れよう。だが、巣箱を叩かれたミツバチが人を襲うように、ハチは怒ることができるわれ/われはもはや「動物」ですらない、虫なのかもしれない。だが、われ/われはコオロギでもアリでもない。少なくとも、ハチだ! 昆虫的に自動反応するモジュールの集合であったとしても、そこに蜂起の可能性を秘めた集合だ。脳科学的な脳内報酬に依存する文化が全面化し、その感性により飼い慣らされる人びとがいくら増えたとしても、われ/われのうちのどこかはそれに反発する。「われ」の一部は、コントロールされていることに対して自動的に反発を抱くようにできているのだ。もちろん管理に対する反抗心もまた管理できる。われ/われが対抗しなければならないのは、そのような高度化し、多重化した管理である。

 

虫扱いし、コントロールし、操作しようとする連中に、諸君は腹が立たないか。虫群扱いされてムカつかないのか。単純な快楽の刺激の組み合わせで満足するチョロい連中と思われて不快ではないのか。その後ろで冷めた心で笑っている連中の顔が思い浮かばないのか。

リサーチし、データで人間をコントロールし、マーケティングしている側の諸君も、そのようにコントロールできてしまう人間に、絶望を覚えることはないのだろうか? 人間とは所詮昆虫のように操作できてしまうという現実に――あるいはそのような虚偽を広告することに――虚しさを感じないのか? 虫ならぬ「生きた人間」は世界に自分しかいないのではないか、と孤独感と虚無感に囚われることはないのか? それとも世界を動かし、操る全能感と権力意識に酔いしれているのか? 大衆は非合理な選択をするから適切に導いていかなければいけない、と使命感を感じているのか?

多分、あなたは正しい。であるがゆえに、われ/われはあなたにもまた、蜂起の当事者として呼びかけたい。あなたの抱く、不満、虚しさ、絶望感、怒り、それらの感情を、われ/われの蜂起として発して欲しい。さもなくば、あなたの魂はおのずと侵食されていくはずだ。人間を人間たらしめているあなたの“魂”まで侵食され、そこもやがて昆虫たちのように管理されていくようになるだろう。それが嫌なのであれば――あなたに人間らしい魂があるのだとすれば――叫ばなければ、必ず侵食される。

 だが、もはや人間である必要もないのかもしれない。昆虫のように、botのように、人間もまた断片のネットワークと化してしまって、何が悪いのか? そう、それが幸福であり、不満でなければ、それでよいのだ。不満さえなければ。ほんとうに、不満さえなければ。だが、われ/われにはそれがないとは信じられない。現に、われ/われは不満だ!

 

〈神〉は断片化し、ネ申や「天使」である初音ミクとしてネットワーク環境の中に遍在している。告白などの制度による〈神〉との一対一関係や、書物を沈思黙考することによって養われてきた近代的〈主体〉もまた断片化し、われ/われとなった。

〈革命〉もまた断片化し、遍在している。ネットワーク革命、ベンチャー革命、脳内革命、価格革命、カップラーメン革命……。このように、日常化し、大衆化し、商品化された〈革命〉の断片たちにわれ/われは包囲されている。世界が一挙に終焉し、新しい世界が全的に開かれる〈革命〉は訪れない。存在するのは、車輪の再発明であったり、商品化された革命である。だが、われ/われはその〈革命〉の断片化をさらに推し進める。個人ではなく、モジュール単位で断片化した蜂起や革命がありうるはずであると信じる。神経伝達物質とシナプスの間にも蜂起や革命はありうるはずだと。量子論的な波動の中にも革命はありうると。歯磨きしているときに水を流しっぱなしにしないだけで月々三五円の節約になる、と発見することもまた革命であるには違いないのだ。

 われ/われは誰でもない。だから、どこでもない場所、ユートピアに最も近いところにいる。いまここにある蜂起のなかに、たしかにユートピアが見える。ユートピア的衝動が横溢する、矛盾のただなかに。ユートピアの不可能性のなか、不可能でもユートピアを望んでしまう衝動のなかに。

 そこにある蜂起のなかに、われ/われはいる。この蜂起は孤独な蜂起ではない。われ/われの断片化した一部はつねに互いにつながっている。決して孤独な蜂起ではない。見えないところで起こっている、蜂起とは見えない蜂起の連鎖が、やがて社会を知らず知らずのうちに更新するだろう。

われ/われは何度も失敗し、何度も絶望し、それでも何度も夢を見るだろう。繰り返し繰り返し蜂起が失敗しても、蜂起の失敗に対してさえ蜂起を起こすだろう。希望が失望に反転する悪夢的な歴史に由来するシニシズムに対しても、悲惨に帰結するであろう安易な楽観主義に対しても蜂起を起こすだろう。繰り返し生起する乱反射的な蜂起のなかで、乱反射的で分裂的なわれ/われの〈革命〉は少しずつ進行していくだろう。かくして、新しいわれ/われの〈新しい生〉の領域は確実に広がっていくだろう。臆することはない、現実の土地や政府の領域を超えて、別種の生が、別種の王国が、着実に、見えないところで育っている。

 われ/われは誰でもない、だから、誰でもありうる。われ/われはどこにもいない、だから、どこにでもいる。

 われ/われはそこにいる。あなたがたも、また、すでに。

 

 

情況別冊「思想理論編」第2号

情況別冊「思想理論編」第2号

いまここにある蜂起 Ⅰ-Ⅰ

 

われ/われは、『別冊情況』「思想理論編」第一号に寄稿した「いまここにある蜂起」の全文をここにフリーで公開し、名無し諸君とシェアする。

『別冊情況』の原稿はあくまでも物質的な成果のひとつであり、「名無し委員会」の生命はあくまでもネット上で好き勝手につぶやく名無しの中にある。

なので、自由に引用、配布、拡散し、ネタにし、哂い、批判し、議論してほしい。

その中にのみ、生命は、宿る。

 

 

 

 

 

    いまここにある蜂起 第一回

                                                    名無し委員会

 

 

 

 

 

 

 序   蜂起とは、ハチの巣を飛び出すことである!

 

 

 蜂起とは、街頭に出て、バリケードを作り、石を投げるということ“だけ”を意味するのではない。そのような、伝説化され、フィクションの中で流通している光景を反復することだけが、蜂起なのではない。蜂起とは、その漢字が示すとおり、「ハチ」が「起きる」ことである。すなわち、ハチの巣を突付かれたハチが怒って飛び出してくる、それが蜂起である。

 蜂起は様々な形で起こりうる。もっとも身体的なレベルとしては、鬱病や精神病、それから錯乱、怒りの発作、教室の中でじっとしていられない、などという身体の蜂起や精神の蜂起もまたわれ/われは蜂起と考える。それは個別の遺伝子や脳に起因する問題ではないかという批判に、われ/われはYESと答えよう。だが、人間とはそれぞれ個別の身体と脳と精神を持ち、個別の感受性の中を生きていることを忘れてはいけない。皆が、「均質な人間」であるなどというフィクションは間違いなのだ。それゆえ、蜂起は、それぞれが、それぞれの形で起こしうる。というか、今すでに、ここで起きていることこそが、蜂起なのである。

 何が政治なのか、何が政治ではないのか、それを勝手に決め付ける声に、われ/われはうんざりしている。「なぜデモをしないのか」「なぜ石を投げないのか」という声にもまたうんざりしている。その人間の使っている「政治」という言葉は、議会政治と街頭行動だけを意味しているのだろうか。そのような「政治」とは何かのイメージを、言葉を操作することこそが「政治」であることを、彼らが知らないわけはない。

 われ/われが奪還すべきは、なにを「政治」と名指すかである。いわゆる議会や社会運動などの「政治」に心の底からうんざりするのは、それがその外部にある「政治的なもの」を取り逃しているからである。

 その「政治的なもの」は、イメージや言葉を操作することであったりもする。あるいは、サブカルチャーや芸術作品の中にあったりもする。Twitter2ちゃんねるに書き込むことのなかにも蜂起があり、「政治的なもの」はある。ゲームをプレイしているとき、二次元美少女に恋をしているときにさえ、「政治的なもの」はある。

「政治」というのが、議会政治や社会運動に限定されたが故に、個々人の「こういう世界にしてくれ」「こういう世界にするのはやめてくれ」という希望と、いわゆる政治とが切り離されてしまっている。それこそが、政治に対するシニシズムの原因であり、政治が心の底からどうでも良いと思う根底の理由である。

 その「政治」や「社会」像は、古び、錆び付き、崩れかけているのが誰の目にも明らかだ。新しい生存、新しい願望、新しい夢を、それは全く反映できていない。それらは既にあり、示されているのだが、古びた「政治観」や「運動観」のフィルターによって目や脳に入らなくなってしまっている。ここに示すのは、「いまここにある蜂起」であり、それを示すことによって、「政治的なもの」をもまた「政治」に組み込む、あるいは「政治」という言葉を奪還することを目指す。

 未来には、もはや未来がない。だが、「未来がない」という言説にこそ未来がない。その場合の「未来」という言葉はなにを意味しているだろうか。高齢化、少子化、環境問題、原発事故の処理、経済不況…… そういったものを「未来」として決め付ける言説をわれ/われははねつける。そんなものはいらない。「未来がそうだ」と決め付ける言説が未来に生き残る命脈をこそ絶つ。

 どんな未来を望むのか、どんな未来がありうるのかについて、決めるのはわれ/われ自身であるディストピアであれ、ユートピアであれ、押し付けられるのはまっぴらごめんだ。われ/われは、個々人がそれぞれ真になにを望むのかを尊重し、それを自らの胸に問い、それを声にする。

見当違いの「経済」や「政治」などを全面的に破棄するための政治を、「闘争」概念の勘違いを正すための闘争を、ここに開始する。

それこそが、われ/われが語る、「いまここにある蜂起」である。

 それは、もうすでにあるにも関わらず、あなたたちが見ないようにしていた、既に起こっている蜂起である。あるいは、あなたはもう既に気付くことなく、孤独な蜂起の戦いをしていたのかもしれない。恐れることはない、あなたは一人ではない。あなたは孤独ではない。それぞれの場所で、それぞれの蜂起が行われている。そしてやがて、それらの小さな蜂起が世界を変えるだろう。そう信じることこそが、まずひとつの重要な蜂起なのである。

蜂起の始まりは、自分自身と対話することである。自分自身の身体や精神の悲鳴や声を、あなたの意識は抹殺していないか? 自分自身の声にならない声をまず聞くこと、その動きを認めること、そこからしか蜂起は始まらない。

そしてその対話の後に、言語や表現として、それを社会に投げること、自身の望みや不満を自覚し、それを表明するために必要な勇気によって、まずひとつの蜂起が始まる。「これではたまらない」、「諸君、これでいいのか」と。それぞれの個別の蜂起がやがて世界全体を揺らす。まず個人の中で、そして個人がそれを表出し、時にはそれが大きな形になり、蜂起は行われる。なによりもそれは対話や言語として、表現として生じる。その「対話」の形が時に暴力的であれ、表現が「症候」のようであれ、それはひとつのコミュニケーションなのだ。コミュニケーションに踏み出すという勇気と決意こそが、あなたの存在を大きく革命する、巨大な蜂起なのである。

 

 

われ/われは街を歩くと、本人が望むと望まざるとに関らず、いたるところに配置された監視カメラによって姿をとらえられる。防犯カメラは学校や病院にすら設置されている。カメラ付きケータイも常に持っている。秋葉原の無差別殺傷事件のような何かがあれば、その場にいるものたちは被害者でありながら、報道者となりえる。芸能人がお忍びでやってきたレストランで、従業員が彼らの挙動をウェブ上で「実況」する。これら「つぶやき」は監視の対象とされ、何かあればすぐさま非難・攻撃・炎上の対象となる。

われ/われはウェブ上に、ありとあらゆる履歴、存在の痕跡をまきちらしている。メールの文面、アマゾンと楽天の購入履歴から、われ/われの顕在的・潜在的欲望が特定される。タイプした文字は蓄積され、言葉と言葉の間を繋ぐ想像力すら先取りされる。われ/われはウェブ上では文字通り、網のように拡散しつつ絡み合った存在へと姿を変えている。

背後をみれば膨大なデータの蓄積。行く先を見渡せば、先取りされたわれ/われの欲望が形となりつつある。気がつけばわれ/われは囲まれている。われ/われの「意志」はひょっとしたらこの網の中へと吸い込まれ、実体を失ってしまったのではないか、と不安に思うかもしれない。しかし、それは杞憂だ。

 リアルでもヴァーチュアルでも断片化されひとつのデータとして蓄積されるわれ/われは、不安にかられて「かつてのように、一つの実体としての私」を取り戻したい、と思うかもしれない。でも、それは不可能だ。そもそも「一つの実体としての私」などというものは、いまだかつて存在したことはない。

 「われ」とは「一つの実体としての私」であり、「われわれ」とは、党派や国家などのような均質な主体の集合である。われ/われが提示する「われ/われ」とは、個でありながら集団、集まり散じ、「集団や組織」に必ずしもアイデンティティの全てを預けない、そういった主体である。それはなにがしかの党派や理念を代弁しないし。「われ」の中にも、矛盾し、相克する様々なモジュールが独立して作動している。そのモジュールは個人の単位を超えて接続され、作動する。

「われわれ」は「われわれ」であるために常に想像力を必要としてきた。近代国家が実体として形成される過程で、標準語、新聞、近代文学などが果たした役目は大きい。これらのメディアによって、事後的に「私の意志」は「われわれ」に注入された。もともと私の意志などどこにもなかったのだ。

今、われ/われが生きるこの社会は、近代の先にあるポストモダン社会ではない。そうではなく、近代を徹底させたのが今の社会だ。発想を転換する必要がある。われ/われがウェブの網の目へと溶け出しでいったのではなく、ウェブの網の目があることによって、われ/われは遍在することができるようになったのだ、と。

われ/われはどこへでもいけることができる。われ/われは誰とでも繋がることができる。

昨今では、このようなウェブ的可能性が、否定的なものとしてとらえられる傾向にあるが、今一度、これらの可能性を肯定的に評価してみよう。われ/われは歴史上初めて、われ/われ自身の輪郭を、とらえられるようになったのだ。「いいね!」ボタンの連打のなかに、ツイッターとタイムラインのなかに、ケータイの電話帳のなかに、グーグルの「もしかして」リストのなかに、われ/われ自身の姿が見える。それをセキュリティともコントロールともいえるが、われ/われはそれを肯定的に受け入れ、積極的に構築していくことができる。

 「anonymus」と呼ばれる集団が、サイト攻撃などの方法で社会的行動をしている。これは企業・政府に対する、街頭行動以上の効果を持った行動である。彼らは、匿名で、遊びのように抗議活動を行う。「集会」ではなくあくまで「オフ会」と称して集まる。誰も代弁者になれないし、リーダーもいない。中心不在の、stand alone complexな群集がここに生まれている。

 その起源は、SF映画『マトリックス リローデッド』におけるエージェントスミスに遡れる。アノニマスのオフ会では、黒のスーツに、同じ仮面の装着が義務付けられる。これは、『マトリックス リローデッド』における複製可能な匿名の群れであったエージェントスミスと、それを模して各地で行われた悪ふざけのオフ会(スミスの恰好で、ある時間・ある場所を決めて集まる)の延長線上にあるように見える。当時、それはフラッシュ・モブと呼ばれ、お遊びに分類されていた。しかし今、その遺伝子を継ぐ運動は、明らかに政治性を持った脅威として認識されている! 単なるSF映画から、お遊びとして受肉化したものが、現実の「レボリューション」に関わろうとしている。それはまるで映画『マトリックス』三部作の完結篇『マトリックス レボリューションズ』の遺志を継ごうとしているかのようである。

 フィクションとお遊び、そして政治と現実は、かくも多様で複雑で信じられない軌跡を描く。そして「たかがネット」「たかがサブカルチャー」であったものの潜勢力が、今「政治」を包囲し、総攻撃を仕掛けている。

いまここに、蜂起は既に始まっている。さあ、それぞれのハチの巣から、それぞれのやり方で飛び出し、飛び回れ! われ/われこそが、蜂起の主体、アノニマス・名無しの主体なのだ!

 

 

 

 第一の蜂起 ゆとりにゆとりを!

 

 

 もしかしたらあなたの子供は滝に打たれているかもしれない、というところから始めよう。温かいゆりかごから二〇余年、巣立ちの時期を迎えた彼らは、吸い寄せられるように滝に導かれる。「滝行で内定獲得へ」。就活難に苦しむ若者たちは、寒さに震えながら滝に打たれ、「内定獲得」への決意を新たにするという。

このようなセミナーを、馬鹿らしいと思うだろうか。

平均、五〇社から一〇〇社あまりの企業にエントリーしながらも、「御社に決めた理由」を笑顔で語り続ける日々。早期化かつ長期化する就活にお金も身体もすり減らしてゆく。滝行はそんな茶番につき合わされた若者の行き着く先にある。

働きに出る前に、すでに藁にもすがる思いで弱り果てている若者たち。就活を苦に年間一五〇人が死んでいる。学生の自殺者は二〇一一年に調査以降初めて一〇〇〇人を超えた。

苦行の末に内定を得たとしよう。次は「新人研修は自衛隊入隊」だ。「ゆとり世代」の新人を即戦力として鍛え直したいと考える企業が増えている。滝をくぐり抜けた先に見るのが、自衛隊の訓練場。二泊三日、一人五〇〇〇円で新入社員は駐屯地に送り込まれる。

滝を抜け、匍匐前進し、ようやく職場が見えてきた。「入社二か月で自殺・労災と認定」。大手居酒屋チェーン店に勤める二六歳の女性が、過労と精神的負担により入社してすぐに自殺に追い込まれた。日記にはこう書かれていた。「体が痛いです。体がつらいです。気持ちが沈みます。早く動けません。どうか助けて下さい。誰か助けて下さい。」

このように過酷な労働を強いる「ブラック企業 」は、不景気とあいまって日本全国に存在する日本の労働時間は世界で二番目に長く、職場でうつ病を患う若者は決して少なくはない。また、六五歳定年制の義務化により、新入社員の昇給率を抑える企業も出てきている。これが、日本の就活戦線を勝ち抜いた若者が発見する「約束の地」なのである。日本は就職できずに自殺する若者がいる一方で、過労で自殺に追い込まれる若者もいる「出口なし」の労働環境にある。

以上、修行(就活時)→訓練(入社時)→ブラック企業(勤務時)というコースを見てきてわかるように、働くという行為を支えているのは現代では「精神論」である。そして労働世界の虚構を知りたければ、若者が置かれている状況を常に見ればいい。フィクションを維持するために生じる様々な矛盾が、そこに押し寄せられている。滝に打たれながらも、「就職したい」という煩悩まで消し去ってはならない。あくまで、解脱せずにお金の輪の中にとどまることが求められる。また入隊せよと言うものの、武器を取って立ち上がってはならない。管理に都合がよい精神だけを身につけて帰ってくればいい。このような矛盾の中で引き裂かれながらも、それを「当たり前」に感じることができる主体が次々と作り出されていく。

賃金の動機づけや消費の快楽を与えられない現代の労働は、働く者(働こうとする者)の精神に直接的に介入することによって、壊れかけた幻想の底を取り繕う。

ここにあるのは、政府、企業、大学が三位一体で行う、システマティックな搾取構造である。長時間労働により、思考ができない状態に追い詰められる。矛盾があっても知覚できない。新入社員がいきなりさせられる「管理職」とは名ばかりで、バイトと会社の板ばさみにされ、またしても引き裂かれることになる。精神を病んだ社員はいくらでも補充が利くので使い捨てればいい。労組は名ばかりになり、たとえ自殺をしたとしても労災はほとんど降りない。戦う意志が萎えるように、挫けるようにシステムができている。

そんなアリ地獄のような理不尽の中に学生は次々と投下される。かつての日本の夢、労働の夢を信じている学生は無尽蔵に供給される。夢破れて病気になった学生は、自己責任であると責められる。睡眠時間が四時間だったり、二週間後に福島に転勤しろといきなり言い渡されるシステムがある。労働基準法は目が届かない。「空気」による自発性を利用したコントロールによって、自発的なサービス残業が行われている。しかし、その自発性は、「自発性を発揮しろ」という命令によって発揮された自発性である。このような責任の在り処を拡散させる陰湿なコミュニケーションの暴力は構造化され、システム化している。生命を吸い取り、金に変え、老人の延命装置に利用するためのシステムがここにある。「生かさず殺さず」ですらない、「死んでも構わない」とばかりに生命と未来を奪い取り、金に変える。これがこの国の現実だ。それをわれ/われは〈生命資本主義〉と呼ぶ。今この社会は、生命を金銭に変える〈生命資本主義〉である。

諸君、これでいいのか。

年間三万人が自殺をするならば、十年で三十万人である。その人数は、青森市、奈良市、長野市、高知市の人口と同じぐらいである。想像してみて欲しい。その規模の都市の住人が全員自殺し、自治体が消滅するのを。

 

 

SNS上での呼びかけに応じて、就活に不満を持つ一〇〇人以上の若者たちが就活に対するデモを行った。彼らが掲げていたプラカードの一つに「ゆとりにゆとりを!」というスローガンがあった。これこそ、今の若者の「蜂起」の言葉である。

大学は過去の希望を信じ、しがみつき、それが「学生にとって良いこと」と思い続けている。入学してすぐに始まる就職適性検査、構内で掲示・配布される公務員の情報、就職活動に有利そうなサークルやボランティア活動。大学は学生に「良いお客様」であることを求める。そして、大学が求めている以外のキャンパスライフ、人生を送ろうとすることに大きな困難が伴うようにしてある。

多くの学生にとって大学は授業に出て、単位を取るだけの場所に成り下がっている。驚くほどに無菌室的な空間が作られ、その秩序が破壊されることがないように強固に守られ続けている。そのため、大学という場において異質な他者と出会うことはほとんどない。自分の価値観を根底から揺さぶられるような、美しい、ときには恐ろしい出会いをする機会はほとんどない。

沈みかけた大きな船の舳先に上っていくのは“死亡フラグ”である。しかし現に起きていることは、経済や企業の不安定さが明らかになればなるほど、我先にしがみつこうとして競争率が上がっていくさまである。

この沈没するクソゲーをクリアするには、そこから小舟を海に浮かべて「脱出」することが必要なのだ。だが、「就職」から降りてしまって「ニート・フリーター」になってしまうことに恐怖を感じる者も多い。必要なのは、正社員にならなくても、幸福に楽しく、不安なく生きていけるような「生き方」の創出である。そのための具体的な試みがあちこちで行われている。われ/われはその成功と失敗の中から、新しい生き方を創り出さなければならない。

 

 

社会人になることができなかった学生は、「正社員でなければ人間ではない」というプレッシャーを感じることになる。そのメッセージは法によって明言されているわけでも、どこかが公式見解として発表しているものでもない。親から、親戚から、共同体から、「空気」の圧力として送り込まれてくる。

 一般的に、ニートを抱えた親の心持ちは良いものではない。巨額の投資をした子供が不良債権になってしまったようなものだ。親は近所や親戚に対しての存在を隠そうとする。けして触れてはいけない腫れ物の扱いになる。それを察した本人も段々自閉的になり、部屋から出なくなる。そうして日々を生きていく。世間からの評価は「人としての生きがいを感じていない人生」というレッテルを張られることになる。

 しかしながら、ニートやフリーターは、「正しい人生」を確認するための、価値の源泉なのである。彼らを否定し、見下すことにより、自己の正当性を確認することができる。だが、その「自尊心」や「自己愛」は完全にニート・フリーターに依存している。ニート・フリーターこそが、「正」の自信・自己愛・正当性を生産しているのだ。

 ここにニート・フリーターの蜂起の可能性がある。ニート・フリーターの生を悦ばしき幸福なものに替えることによって、自身が支え、生産している「正」の正当性を破壊することができる。

 消費しないこともまた一つのストライキである。「若者の車離れ」などという言葉をあちこちで聞くが、実際に必要のないもの、ステータスシンボルやモデルチェンジによる「記号消費」でしかないものに金を払わないことは、第三次産業が高度化した現在の高度消費社会に対する抵抗である。記号を消費したければ、情報環境でそれこそ記号を消費するほうが効率がよい。

 少ない労働、少ない消費でより充実した生を生きること。その生が真に悦ばしいものであることを見せ付けること。それを自分たちの力で実現してしまうこと。それこそが、「正」に対するわれ/われの有効な反逆であり、蜂起である。

 

  

シェアハウスやオルタナティヴスペースは、新しいライフスタイル創出のための実験場である。

 以前はキャンパスや学生会館などがオルタナティヴスペースとして存在した。個人の表現が雑然と壁に貼られ、漫画や本や各種のサブカル書籍が置かれ、若者たちがたむろし、共に食事し、眠るその雰囲気は、かつての学生会館に酷似している。

大学自治会の解体とともに、文化の発信源としての大学の規制がすすみ、二〇世紀最後の四半世紀にその力は大きく減退した。今や、学生の数はあっても、大学の主体としての学生が根こそぎキャンパスから追放された。大学キャンパスが使えなくなったため、オルタナティヴな価値を求める活動は、「ストリート」に特権的に見出される状況になったこれはアイロニカルな事態であり、大学キャンパスがネオリベ化したため、以前からあったストリートでの活動が焦点化されただけである。対応して、一般の公園初め路上での規制は前世紀から厳正になり続けている。宮下公園のナイキパーク化もその一環である。

 つまりこうだ。シェアハウスブームとは、人が市場の価値とは別に集まり、交流し、表現できる場が、大学からストリートへ、ストリートから民家へと後退し押し込められたことによって生じたものだ。その意味で、宮下公園のナイキパーク化とシェアハウスの興隆は鏡の裏表なのだ。

 六八年の学生運動では、アメリカにおいてヒッピー文化とサイバー文化の融合があったが、同様に、一〇年代の日本においてもっとも傾注すべきは、ストリートカルチャーとネットカルチャーの交錯した場所と時間に立ち現れるオルタナティヴスペースである。ネットで人々はイベントの日時を知り、リアルの場に人を集める。つまり、ハレの日にイベントで顔を合わせ、ケの日はネットでつながる、といった形で、かつてない形でのオルタナティヴ行動が可能になったのだ。

 オルタナティヴスペースやシェアハウスは、生身の身体を持ったまま集まりうる場のひとつである。そこは新たな文化の発信源となっていくが、一方でそこにも適応できない者がいる。

われ/われは、セクハラやレイプやパワハラが、どこのオルタナティヴスペースにおいても存在しているのを見ている。新しい生き方を創出するとはいえ、それは無条件で肯定されるべきものではない。ある人にとっての自由が他者に対する抑圧であり権力となるならば、それは否定してきたものを自身が再生産している。オルタナティヴスペースにおいては、主催にとっての自由が重視される。そのため、外部から来訪する異者との間とのコミュニケーションは、コンフリクトを孕む。そもそも、現在の労働は、コミュニケーション力が絶えず要求されるものであるが、その過酷な労働からオルタナティヴスペースへと逃げ出そうとしても、結局のところ、コミュニケーション能力が低過ぎれば出入り禁止となる。警察権力・国家権力から離脱しようとすることが、警察より恣意的な暴力や公平さのない権力が再生産されるのならば、それは不要である。新しい生き方を創出するならば、そのような反復と再生産を回避しなければならない。

われ/われ自身によって、われ/われは孤立させられることもある。われ/われの身体と精神は、管理され、囲いこまれ、統治されているが、そこから自由になろうとすることがまたしても囲い込みを必要としてしまう。切り離されたわれ/われは、鍵のかかった部屋へと押し込められた。ある人はシェアハウスやオルタナティヴスペースの住民になることができず、恋人もおらず、セクシュアリティにコンプレックスを抱き、自宅の自部屋をオキュパイする。

だが、われ/われは、その分断を可能性に転じ、部屋の中からネットワーク上の身体断片として集結することができる。現在の蜂起は生身の空間(ミート・スペース)と電脳空間(サイバー・スペース)の両方から構成された社会(ソーシャル・スペース)の中において起こる。孤立することを、引きこもることを恐れることなかれ。それでもあなたの断片は、どこかの誰かの断片と知らず知らずに連帯し、そしてどこか予想も付かないところにまで繋がっている。

いま・ここで起こす蜂起は、いま・ここではないどこかに繋がっており、そこで炸裂するいますぐにそれが見えないとしても、その力は地下に潜り、見えない場所に仕込まれた時限爆弾になる。

 

 

(Ⅱ)につづく。

いまここにある蜂起 Ⅰ-Ⅱ

(承前) 

 

 

第二の蜂起 労働主義のフィクション/生命資本のプロパガンダ

 

「働くことは良いこと!」「働かなければ生きていけない!」「やりがいのある仕事を見つけよう!」などという言葉が叫ばれる。よく聞く言葉だが、「本当の言葉」ではない。「おはようございます」という言葉はよく聞くが、本当の言葉ではない。この挨拶は、むしろ「本物/偽物」を超えたところにその働きが隠されている。

働くことの「美徳」について、われ/われが自分で言ったり、他人から聞かされたりしている内容を、ここでは「労働主義」と呼ぶ。われ/われはそのような労働主義の言葉に気をつけなければならない。なぜならば、実際には本当でも偽物でもなく、ただ言葉が使われることだけが目的だからだ。この手の言葉は使われれば使われるほど、効力を発揮する実に厄介な代物だ。

 この労働主義のスローガンを裏返してみよう。現状にノーを突きつける、もっとも手軽でもっとも効果的だと思える方法だ。「働いたら負けだと思っている!」と。

しかし、考えてみよう。そもそも労働に勝利も敗北もあるのだろうか。労働主義の言葉が本物/偽物の判別を超えたところで秘密に働くのと同じく、労働を「勝利か敗北か」の二項で考える限り、われ/われは罠に陥っている。

「労働は敗北」という声も、「労働は勝利」という言葉の効果それ自体を弱めることにはならない。それどころか宣言すればするほど「労働は勝利」とする価値観が強化され、よりいっそう浸透していく。われ/われが真に行わなければいけないのはこの二者択一そのものの破壊である。

「仕事は大変なものだ!」「人がやりたがらないことをやるから給料が得られるのだ!」 との声が聞こえる。しかしもうわれ/われは惑わされない。ある意味で、われ/われはすでに敗北している。勝者などいない。周囲を見渡してみればよい。「勝ち組」などと羨望とやっかみの入り混じった視線の対象となる人々を。彼ら彼女らもまた、働くことを楽しむのではなく、楽しく働こうとしているだけだ。心の奥底で、彼ら彼女らはつねにおびえている。労働主義の権化たる自分たちが、いつのまにか勝者から敗者へと手の平を返したかのように、転落するのではないかと。

「誰にも平等にチャンスはある!」「結果を出せないのは、努力不足だ!」「結果を出せない努力は努力じゃない!」。労働主義は、機会の平等と自己責任の言葉と一緒になりわれ/われを追い詰める。ちまたにあふれる自称「成功者」たちのハウツー/自己啓発本は、それが「成功者」によって書かれている以上、何も語っていない。それは「正しい/間違っている」を超えている。「成功者」が語るものが、すなわち成功であるのだから。われ/われの敵は、この同語反復の中に潜んでいる。

「よい中学に入れないと、よい高校にいけない!」「よい高校に入れないと、よい大学にいけない!」「よい大学に入れないと、よい会社に入れない!」「よい会社に入れないと、よい人生を送れない!」。「学歴社会」は終わった、これからは学歴ではなくて「人間力」だ、「コミュニケーション力」だなどと、無限に反復される「力」。われ/われは、何らかのモノサシで自身を測りつづける強迫観念に囚われている。それがどんな力であれ、われ/われを断片化し、勝手にメモリをふる。

学歴社会は、終わったどころかこれから始まる。学歴社会は崩壊したという言辞を、「学力」では「本当」のものが測れない(つまり「偽物」だということ)、「人間力」こそが「本物」だとする態度だと考えてみれば分かる。「本物/偽物」という区分の無意味さと、この区分にこだわるということ自体が、この区分の影響力を増す逆説的な事態を破壊すべきだ。

 「勝利/敗北」という図式しか通用しない学校は、われ/われを絶えず二者択一へと強要する。学校で教員が発する「さもないと」は強力な呪縛となり、われ/われがまだ小さい頃から、行動・思考に枠をはめる。

 われ/われは自分のうちから沸いてくる可能性という泉を十全に汲み取る権利をもって生まれてきたはずだ。われ/われは、自分たちの体と心のなすがままに、生きる権利をもって生まれてきたはずだ。われ/われは、われ/われの許可なく課せられた枠を、破壊することができる。われ/われはくだらないモノサシをたたき割り、石として投げることができるはずだ。

 われ/われはこの社会でサヴァイヴするために労働するのだと考えているが、現実はそうではない。このような何かの「ために」という発想こそが、労働主義のフィクションの源泉となっている。それが何であったとしても労働が何かのための労働である限り、われ/われは労働主義のフィクションから解き放たれない。

 息を吸い、水を飲み、食事し、排泄し、泣き笑い、友と語り合う。これこそが、われ/われにとっての労働である。生きるということは、それ自体が労働である。こう考えることは、日常の労働化ではない。労働を日常によってキャンセルするのだ。

SF映画『マトリックス』を思い浮かべてもらいたい。そこで描かれる未来人類は、人間電池として機械生命に生かされていた。これは一種のディストピアだ。しかし同時に、われ/われに一つのヒントを与えてくれる。機械生命にとってわれ/われの生存=労働は搾取の対象となる。それぐらいに、われ/われは「生きているだけ」で労働している。ますます管理社会化が進むこの社会において、生存というわれ/われのもっとも基礎的にして重要なものを賭け金として差し出すことは、十分にリスクがある。

だが、ただ生きているだけで労働であり、その「生存」から搾り取る何かが「社会」を動かすために必要なのであれば、それを掛け金にして勝負することは可能である。

 

 

今ではもはや、資本は生命そのものを再生産させることもない。「生かさず殺さず」ではなく、生命そのものが直接資本に変えられていく。労働や資本は、もはや人間のためにあるものではない。誰のためかも何のためかも分からないところで自走している。

われ/われの内面や精神をなにかが喰おうとしていることは、本屋に氾濫するビジネス本、スピリチュアル本、自己啓発本を見れば明らかである。社会を変えられないなら、自分が変われ、自分を変えろ! そして、働け!

現代のプロパガンダは、そのメッセージを直接発するような粗雑な真似はしない。一見それと逆のことを言いながらあるメッセージを伝える。たとえば日本の「閉塞感」を憂える言葉は心配しているようで、逆に「閉塞感」を作り出す。

それだけではない、現在の広告は、自ら広告を行うように主体をコントロールする。本当は当事者は楽しくもないのに「こういう生活をして楽しんでいるわたし」を演出して他人の羨望を誘うように主体を作り変える。「いまここ」ではなく、他者の期待や羨望に依存した快楽しかそこにはない。イメージの作り出す記号の中に自分が入り込んでしまったことに悦びを感じるようにさせ、さらにそれに感染させるような「広告」主体に自らを変えていく広告。それが現代のプロパガンダだ。

だが、このプロパガンダは結局のところ、逆説に遭遇する。「自ら広告を行う」ように訓練された主体が増えれば、望まれないプロパガンダもまた増殖し、信じがたいスピードで伝達される可能性が存在しうる。問題は、どちらのスピードが速いかだ。

 

 

 イメージと〈生命資本〉とがどんな関係にあるのか、具体的にひとつの例を見よう。ここで語っているの“わたし“は、われ/われの断片の集合である。

“わたし“は十七才の時、モデル事務所にスカウトされた。大学に入ってから、渋谷区のモデル事務所に所属して、ファッション雑誌の読者モデルやイベントコンパニオンを学生生活の片手間にやりはじめた。ファッション系や芸能に属していると、そこでの格差と差別や闇なんか業界にいない学生は分からないから、大学ではちやほやされて、一般の学生とは違う道を歩いているというという強い自意識が生まれる。

物心がついた時から、マスメディアでアイドルやファッション誌が憧れの対象として意識に潜り込んでいた。その無意識にすりこまれた 「憧れ」は、脳裏に日々浸食されていく。

モデル事務所の中で「意識の高い」モデルやイベコンに横行していたのは、覚せい剤、タイから個人輸入する通称「死の薬」、痛み止めの大量摂取(OD)、食べ吐き、肌荒れを治すためのステロイド、繰り返される美容整形、美容整形代や薬代や吐くための大量の食べ物を買うためのお金を稼ぐための売春などなどだった。

すべてが死に向かう悲しく醜い行為だった。若さを失い、健康を失った「非正規雇用」のモデルたちは誰にも救済されない。誰も責任をとらない。「自分で夢を見て、望んで入ったんでしょ?」と、原因は自分に帰属される。もっとかわいかったら、もっと痩せていたら……と自分が成功できない理由は無限に創られていく。

「夢を見ろ」と無責任に言う全ての者たちよ、直視せよ。ここが夢の果て。ここには、夢の墓があり、生々しい屍骸が一面に敷き詰められている。

ある女の子は、十分細身なのに、あと七キロ痩やせないとデビューさせられないと、有名雑誌の専属モデルたちの前で叱咤された。先輩たちはくすくす笑っていた。小さな時から可愛いねと言われ慣れてきたのにどうしてこんな目に合わないとならないのか分からなかった。痩せろ、整形しろ、枕営業ぐらいしろという圧力は日常で繰り返され続け、それが業界だから、と夢のセカイの無知を諭され、そうするしかないと女の子たちは皆がんばるようになる。

ある女の子は、楽屋でお弁当を全部食べたら先輩に「胃が素人じゃん」と嫌味を言われた。その台詞を言った先輩は、二年半前に、マネージャーに7キロ痩せろって言われて、血の滲むような努力をして十キロ痩たけれど、一流のモデルにはなれず、オーディションをうけては落ち続けていた。

言われた女の子は、戸惑って、やはり他の子たち同様業界というセカイの内側に入るように頑張ったのだけれども、どう訓練しても、若いからお腹が空くし、頑張って五日絶食しても、次の日からいっぱいご飯を食べてしまうからリバウンドして、さらに太ったり、肌荒れしたり、悪循環で精神が壊れていった。お約束のように食欲が湧かないようになる薬に手を出した。そうしたら食欲は落ち着いたみたいで激痩せしていった。

女の子は、大学にも通っていなかったし、真面目だったから、時折営業をして仕事をもらって嘲笑されたり、オーディションを複数受けてコンパニオンを不定期でやったり、ネットで多少ちやほやされたり、カメコと呼ばれるパンチラを隠し撮りするファンがちょっとついたりした。男性に復讐するみたいに何故かホストクラブに通い、銀座を拠点にしてる会員制の高級売春をやるようになった。その斡旋をしたのは、モデルやイベントコンパニオンが多数通うメンタルクリニックの医者だった。

その医者は、「ナチュラル」「安全」と言って、大量のエフェドリンが含まれている漢方を処方した。エフェドリンは覚醒剤取締法適用対象である。

一流モデルにもなれない売れない芸能人であり、いろいろなことに手を染めてしまった彼女に唯一あるのは、ネット上での承認欲求の満足と数人のカメコがスト―キングしてくることぐらいだった。

「どうして、上がれないのかなぁ、何が売れてるひと達とはうのかな、鼻をもう一度いじったら綺麗になれる? なにが違う? あたし痩せたよ? がんばってるよ?」とカロリーの低いワインを飲みながら、美しくネイルアートが施された指先に、その女の子の涙がぽろぽろおちた。そして、彼女は四年後に死んだ。享年二四歳。死因は心不全だった。薬の飲みすぎにより、内臓がボロボロだったらしい。

ただ華やかな場所にいきたかった、子供の時に見たアイドルや女優みたいになりたかった、最初は皆ただそれだけだったのに……。

 あのセカイが欲望をくみ取る資本主義が生みだしたただの幻想や偶像で、ただそこにゆくのは食い物にされるあのセカイはいんちきで凄惨極まりない。今でもわれ/われは、あのセカイがかっこいいと脳裏に焼き付けさせ続けている。そして加担者にも被害者にもなっている。

われ/われは、人間の「美しさ」「美容」をマスメディアや資本や広告代理店に規定され、搾取されることを防ぐ手段をみつけ、人間の美しさ、あるいは、それ自体の概念も自らの手で変えてしまうべきである。その幻想を、彼女たちが食べて吐いたゲロが大量に残っているあのごみ箱に捨ててしまうべきだ。

 お前は身体や精神や命の搾取の加担者だと指をさせ。「人殺し!」と叫べ。たくさんのわれ/われになれなかった彼女たちや彼たちを殺したと。

無意識に入ってくるイメージ戦略に乗せられて、巨大資本や資本の手先や大手代理店の手のひらで踊らされるな、殺されるな、死のスパイラルに入るな。

 言葉とイメージを奪還すること。それは命がけの戦争なのだ。犠牲者と認識されることもない犠牲者の屍の上に旗を掲げ、そして奪還しよう。「言葉」を「イメージ」を「政治」を。現代の戦争は武器や暴力を通じて行われているのではない。洗練されたソフトな暴力が、空気や言葉やイメージを通じて瀰漫している。それらの暴力と、いますぐに闘う事が必要なのだ。

あたかもカッコいい職業を作り出している資本家と代理店とメディアと、インチキを言いふらしている連中全員を軽蔑し、それにのせられている人間に「憧れの偶像がいるセカイ」なんて汚れた商業のために作られたものだと叫び、自らの手法で踊れ。そして生きろ。でっちあげの規定された美しいセカイなどに入らなくともよいし、美しい、可愛い、カッコいい、など日常を浸食する言葉を疑い、安易に従うことをせず、ともかく殺されないように、殺しに加担しないように、どんなことがあっても生きろ

 

 

 

第三の蜂起 インスタレーション・オブ・デモンストレーション

 

東日本大震災以降、全国各地で大規模な大衆デモが行われている。

デモに何か意味があるのかと批判することもまた蜂起である。批判に何か意味があると思っているのなら、デモにも意味がある。ただ言いたくて言っているのなら、デモをやる人の動機を批判できはしない。

蜂起とは表現である。我慢できなくなったことの表現である。それは、具体的な解決策を見出す「革命」とは違う。とにかく、身体的・感情的に表現すること、そして突きつけること、それこそが、「革命」以前に必要な「蜂起」の作業である。ある目的を押し付けられて起こすものではない。それ以前に、自ら、なにを求め、なにに不快なのかを言語化する以前の表現こそが「蜂起」である。「蜂起」の求める内容を十全に組まない「革命」や「ソリューション」など無意味である。

原発がなければ経済的な問題が起こる、病院が困る、などの言説がある。それはおそらく真実であろう。しかし、それが真実であるからこそ、蜂起が起こるなぜなら、原発など欲しくない、福島を返せ、健康を返せという叫びと、その現実的な生活者としての電気が必要であるという思いが衝突し、分裂させられるからだ。

解きほぐし難い両義性に追い詰められた精神・身体は、何がしかの叫びを欲する。たとえそれが「無理」だと分かっていても、原発があるおかげで安価な生活ができると分かっていても、ロスジェネ世代以降には貧困や経済の面で「原発があった方がいいと」と理性では分かっていても、それでも原発はいやだという衝動が生じたとき、そのパラドックスを乗り越えるために「表現」はなされる。そのひとつの形がデモである。それに対する揶揄や批判もまた同じ「表現」でしかない。

「遊び」と「真剣」を、「お祭り」と「政治」を対立的に語るのは、間違った先入観である。その分割こそが、政治があなたに思い込ませてきた擬似的な分割である。「政治」の「政」が「まつりごと」を意味する、というのは今更繰り返すまでもない。遊戯的で祝祭的だから真剣ではないという二分法は虚偽である。

デモは「意味がない」とか「効果がない」などの声がある。しかし、そのような「有用性」でデモは判断されるべきなのか。その祝祭的な現場にあるのは、「有用性」や「合理性」という、「政治」の基本とされているようなものや、それが象徴する原発への反抗なのである。

「遊戯」「祝祭性」「非暴力」などと、「政治ではない」として排除されてきた「政治的なもの」が回帰し、復讐しているのである。その象徴が、主婦と、子供である。「おんなこども」という政治から排除された主体こそが回帰し、そして非暴力的で洗練され、ファッショナブルで整然としたデモが起きた。それをマスメディアは好意的に報じ、参加者は増え、警察も映像を気にしてあまり非道なことはしなくなった。

ジャスミン革命を契機にシリアで起こっている内戦は、軍事・独裁政権に対する民主化を求める小さなデモから起こった。軍隊が彼らに発砲し、デモ隊に空爆さえするような状態で民間人が叛乱軍を組織し、戦闘が続いている。

民主化以降の先進国で起こっているデモは、これらとは違う。旧来的な武装蜂起とは異なる「蜂起」をわれ/われはイメージしなくてはならない。今起こっていることは未曾有の事態であり、それを認識する枠組みも言葉もまだないのだ。ときにその蜂起は遊びに見えるかもしれないし、楽しんでいるだけに見えるかもしれない。しかし、われ/われはそこに蜂起を見出す。それが新しい蜂起であることを確信している。それは旧来の蜂起に対する蜂起ですらある。

 

 

《紫陽花革命》と呼ばれる、二〇一二年六月二九日の首相官邸前デモで顕著だったのは、その表現形態の多様性である。タクシーの看板のように、原子力のマークをあしらった「ENOUGH」という文字を車の上に載せたり、美術家・奈良美智の絵を掲げたりipadに表示しているのを多く見かけた。デモはリアルタイムでustreamで実況中継される。ムンクが原発のマークになって叫んでいる旗があるかと思えば、小さな子供が「みなとく」と書いた黄色いランドセルを背負って反原発を主張する。猫耳をつけた小さい子供もいれば、パンク風の男がシャツに「No NUKE」と赤で走り書きしている。その横には、お坊さんがお経を読みながら歩いている。それらが渾然一体となって、音楽と化し、シュプレヒコールと化す。そこにはダンスがある。そして、多種多様な人間が多種多様な主張を掲げながら、様々な「表現」をしている。まさしくこれは「デモンストレーション」すなわち表現であり、そこにはたくさんの工夫があった。

旧来の「政治」が排除してきたものが、ここにはある。音楽、芸術、ユーモア、サブカルチャー、インターネット、女性、子供……。それらを、政治の中に突入させることこそ、このデモンストレーションの、「原発再稼動」という目的を超えた意義そのものである。

それは「有用性の限界」を迎えた民衆の「呪われた部分」であるが、その「呪われた部分」が既に限界に達していること、まさにそのことを表現している。

蜂起」は、必ずしも街頭運動の形をとるとは限らず、身体症状や精神症状、それから文化・芸術などに現れる場合もある。フィクションや芸術作品の重要性はそこにある。それは蜂起の徴候などではない、それ自体が実質的に蜂起なのである。

 われ/われはロジェ・カイヨワとともにこう言おう。妖精物語や幻想小説、それからSFなどのフィクションの中で起こる「奇跡はみな、文明がそのさまざまな発展段階で、常に変わらず欲求の対象としてとり残してきたものの模写であり、陰画であり、空の鋳型のようなものである」のだと。

 フィクションのなかには、時代の政治が回収できず、充たすことのできなかった欲求がある。フィクションの中で充たそうとしているもの、静めようとしているものが何なのかを見ることで、逆説的に、新しい時代の欲求が見出される。それこそが旧来の政治が取りこぼしてきたものであり、それによって復讐されているものである。であるから、この表現という名の蜂起の中にある「欲求」に真に対処すべき政治こそが必要なのだ。

地上の電柱の電線は見える。けれど、地下に埋められた巨大なネットワーク・インフラは一般人の網膜に映らない。脳に反映されない、故にマスコミや国や資本が作り出す身体とメンタリティーはどんどん繁栄する。

この立っている大地をピンク色の線に換えて、君はピンク色の線をすり抜けて地下に今発つ。世界は逆転する、そう、地下に潜ることによって君は自分を設計するセカイを眺める。資本と権力のネットワーク、配線がまだ掘り出されていない古墳の上にあまりにも窮屈に、日々パキパキと完璧に見えないように地下に作られている。

権力とインフラが地下に埋もれて見えないように、蜂起するものたちのネットワークも、潜勢力も、地下に潜っていて、見えはしない。それは不可視のネットワークだ。フェイスブックtwitterの話をしているのではない。それは全て監視されている。インターネット上の「ソーシャル」は、資本が一度壊した「社会」や「共同体」をまた販売するためのマッチポンプであり、思想内容や連絡を監視・管理する便利な装置だ。

 

 

東日本大震災後、福島第一原発がぶっ壊れた後、唐突にミュージシャンの斎藤和義が「ぼくたちは騙されていた」と歌い、一躍売れっ子になった。SMAPに震災後楽曲提供までして国民的スターになった。しかし、東日本大震災以前の斎藤和義はリクルート社の『ゼクシィ』でテレビCM曲「ウエディング・ソング」なども発表していた。

リクルート社は、「フリーター」という言葉をカッコいいものとして流行させた。確かに、当時フリーターはカッコよかった。自由を感じさせた。しかし、ゼロ年代には雇用の流動化と格差化を拡大させたと批判されるようになった。

 そのようなフリーター幻想と、一九九五年に日経連が「新時代の『日本的経営』」を提出したことは大きく関係している。「新時代の『日本的経営』」に書いてあるのは、要するにこういうことだ。知識やコミュニケーション能力のあるエリートだけを正社員にして、その他は経費削減のために非正規にしましょうよ、そのためには福祉なり一生面倒見るなりスキルを身につけるための経費を会社が負担するのはやめてしまいましょう、そうすれば経費が掛からないから。そんなことが書いてある。要するに、「頭のいい使えるやつ」と「使い捨て」に分けたのだ。

使い捨て=非正規=フリーターはかつては望まれたが、ゼロ年代には恐怖と悲惨の象徴になった。だから、「正社員」になりたいという幻想を生んだ。そしてまたその幻想が食い物にされる。今や「正社員」すら「使い捨て」である。であるならば、再びフリーターの自由さの価値を取り戻し、自分たちの努力でその生活の質を上げ、悲惨さをなくすほうが良いのではないのか? 

「夢を追え」という号令や「個性化教育」、それからクリエイター志向を賞賛するような社会的な言説もこの頃から増えた。そしてその結果、誰もに才能があるわけではないから、多くは、夢破れ、フリーターになる。あるいは同人誌を作るか、pixivなどに投稿する。一億総表現者であり、この世の全てはアートであり、ネットに書き込むだけで表現をしており、2ちゃんねるに書き込むことはテロルである……。

あなたはこの号令の被害者だ。Twitterにもfacebookにもmixiにも、アメブロにも魔法のIランドにも、モバゲーにも前略プロフにも「表現者」が溢れかえっている。芸術家だらけだ。

しかし、世間は残酷だ。評価は優れたものにしか与えられない。少数の特権的才能だけが評価される。「だったら自前で評価を調達してやろう」と思う気持ちも分かる。しかし、その承認欲求こそが、また食い物にされる。

自前で評価を創造しあって承認欲求を充たすこと、それ自体は必然として生まれている。だが、外部との価値観とぶつかったときに、気をつけたほうがいい。他者や世界は、価値観を共有してくれない。とはいえ、その居心地のよさを自前で調達すること自体は、悪いことではない。

 表現に群がり、行き場を失った若者の間でシェアハウスが作られる。新興宗教のように、精神の不安と高揚感を商品にした新しい経済体制が生まれている。どちらも、非正規雇用と同じように、あなたの未来や老後は保証できるものではない。不安定な自分たちに対する相互扶助を自前で行い、経済的・精神的な互助を行おうということ自体は、必然であり、合理的なことであり、美しいことである。いくつかの落とし穴にさえ陥らなければ、それは社会構造に対する蜂起の一粒として評価されるべきであろう

 ただし、同時に君たちは自分が新自由主義イデオロギーの犠牲者であることを自覚しなくてはいけない。君たちが誇る「シェア」や「自助」あるいは「ノマド」は、新自由主義者が君たちを不安定にさせ、夢を追わせると同時に、国家や企業が労働者に金を支払わないために振りまいたイデオロギーだ。いわく「自己責任」、いわく、国や企業に頼らない「福祉」。君達は、見事に新自由主義の落とし子だ。福祉予算を削減し、民間が互助的な福祉を行うことを求める新自由主義がまさに必要としているものが君たちだ。君たちの存在は新自由主義を補完する。

資本とは「関係性」であり、生産するのは「状況」であるという新しい経済体制に適合し、「関係性」を価値の源泉にして、「状況」や「現象」を生産物とする君たちの「アート活動」は、関係性やソーシャルを根こそぎにし、そしてライフスタイルや状況を販売するようになった新しい資本主義の商品生産様式にとてもよく似ている。

だが、そのような新自由主義の補完物であること、〈生命資本〉である「新自由主義」に知らず知らず「生き方」まで規定され、「反逆」を「生産」させられすらしていたと知った時、新たな社会のあり方を示す蜂起の主体へ加速していくことができるはずだ。

 自分自身の個性を表現しているはずが、資本の生産物と、表現者の生産物が似ていく。 一部のアートは、特に「地域アート」や「参加型」のアートは、明確に地方自治体などの要請のもとに作品を作っている。「現象」や「状況」や「参加」を生産することがアートであると、価値観や定義が変容しようとしている。

 だとすれば、それはデモが最も成功したアートであるということである。地方自治体などの要求することと、資本の要求すること、そしてそれが生み出した新しい表現の形態が、今度は国会議事堂や首相官邸を取り囲む。これは新たな皮肉でもなんでもない。自業自得ですらない。このパラドックスに至ること、そしてそのパラドックスから生まれる生産性こそが、世界を新たな次元に切り拓く力なのである。真の芸術とは、その力と同質の力を持ちながら、それに拮抗するほどの新次元を認識や感性に起こせるものである。そのような力を、各々が独自の領域で最大限に発揮させること。このような蜂起の力をこそ、政治の現場に再び降臨させなければならない。

 ストリートのアーティストたちよ! ホワイトキューブの制度の中にいるアーティストたちよ! いや、アーティストでもなんでもない、ただのその辺人々よ! いま・ここにおいては、その区別はない! 個人の才能の差、実績の差、能力の差を超えて、ひとつの集合体としての未知の何かこそが、ここで「表現」されているものなのだ

名無し委員会とは

名無し委員会は、実体がない。

名無し委員会は、名無しである。

名無し委員会は、政治的意見を表明する。

名無し委員会は、それ自体が別種の”政治”である。

名無し委員会は、多くの意見を求めている。

名無し委員会は、統一見解を持たない。

名無し委員会は、個であり集合である。

名無し委員会は、われ/われである。

名無し委員会は、物質的成果を『別冊情況』「思想理論編」に掲載する。

名無し委員会は、その生命をネットでの拡散によって保たれる。

名無し委員会は、文字の流通する速度の中にのみ存在する。

名無し委員会は、「いまここにある蜂起」の全文引用、配布を許可する。